2019年度までの主任担任教師・下田洋一牧師による


「創世記・原初史物語を読む」

「マルコ福音書から」


連載原稿のアーカイブです。


注)創世記・原初史物語を読む                  

*これから創世記の初めのところにある「原初史物語」と称されている、1章から11章の終わりまでのところにしるされている物語を読んでゆく。

*物語にはメッセージが溢れている。ここではメッセージを聴き出すことに集中したい。

*聖書の本文は「新共同訳聖書」の「創世記」を用いることとした。


それではさっそく物語に立ち入ってゆくことに。


礼拝のメッセージから

マルコの福音書から(13) 4章13~20 〈岐路〉

2015年04月13日 09:39
きょうの物語には受け入れた神の言葉を保ってゆくことができなくなる場合が三つ記されている。   その三つを確認すると、 受け入れた神の言葉をサタンが来て奪ってゆく場合、 受け入れた神の言葉のゆえに迫害に遭い神の言葉を保ってゆくことができない場合、 経済的に豊かになることによって神の言葉を保ってゆく必要がなくなるという場合。   きょうの物語が扱っている三つには共通点がある。それは事情によっては神の言葉を保ってゆくことをしないようになるということが起こるということ。きょうの物語はこの問題を扱っていると思われる。きょうの物語にはこの福音書の共同体に起こっている事情が映し出されてい

マルコの福音書から(12) 4章1~9 〈多くの収穫〉

2015年03月20日 10:35
   種を蒔く人が畑に種を蒔いた。種の中に畑ではない所に蒔かれたものがあった。ある種は道端に、ある種は石だらけで土の少ない所に、ある種は茨の生えている所に。これらの種は単数形であるから、3粒がムダになったということになる。   これ以外の種は耕された畑に蒔かれた。この種はあるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の収穫になった。この種は複数形であるから、蒔かれた種は多くの収穫を得ることになったということになる。   この「譬え話」はムダになったのはたったの3粒、その他の種はすべて収穫に至ったという話しである。この「譬え話」には楽観的な調子が溢れている。この「譬え

マルコの福音書から(11) 3章31~35 〈居場所〉

2015年02月20日 18:27
                   イエスの家族がやって来てイエスを呼び戻そうとした。イエスはこれを拒み、自分の家族は今ここに居る者たちであると言われた。    きょうの物語のテーマは「家族」に関するもの言ってよいと思う。 わたくしはこの「家族」を「居場所」という言葉に置き換えて考えてみたいと思う。   当時、人々の居場所は流動化していたようだ。人々の居場所は通常はまず家族である。しかし、家族が居場所として機能しない状況が生じていたようである。   福音書において登場する人々、イエスに関わり合う人々、この人々の中で家が居場所となっていない人々がかなりいるようだ。

マルコの福音書から(10) 3章1~6  〈会堂にて〉

2015年01月24日 08:35
  イエスは会堂にいた人々に問いを出す。 「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」    イエスは問う、「安息日で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか」。この問いの答は言うまでもなく「善を行う」ことである。そう答えたら「では、善を行ってはどうか」ということになる。この場合に善を行うということは癒しの業をすることである。そうなると、安息日の定めを破ることになる。   イエスは問う、「安息日に律法で許されているのは、命を救うことか、殺すことか」。この問いの答は言うまでもなく「命を救う」ことである。そう答え

マルコの福音書から(9) 2章23~27  〈人間と法〉

2015年01月24日 08:33
  「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」    このイエスの言葉は当時の人々、ことに社会の体制を維持している人々を強く刺激した。彼らはこの発言のイエスに対し激しく憤り、イエスを抹消するまでに至った。いったいなにゆえであったか。   「安息日」の規定は特別な意味をもっていた。安息日の規定は自分たちが「神につける民」であることを確認する最も重要な規定であった。この規定の遵守において自分たちが「神の民」であることが確認される。もしこの規定が場合によっては遵守されなくてもよいとなれば、自分たちが「神の民」であることを確認することができなくなり、自分

マルコの福音書から(8) 2章13~17  〈わたしが来たのは〉

2014年12月12日 17:35
                    きょうの物語に徴税人が登場している。    徴税人はローマ帝国が課する税を徴収する職に就いていた。ユダヤの民からすれば搾取と抑圧の支配者に協力する徴税人には軽蔑の視線を浴びせるほかない。徴税人はユダヤの民共同体の外に置かれた存在であった。    この当時ユダヤ民族主義が高まりつつあった。ローマ帝国支配を追い出す反ローマ抵抗運動が熱く燃えつつあった。ユダヤの民の多くはユダヤ民族主義に傾斜しつつあった。この状況が徴税人をユダヤの民共同体から外すことに拍車をかけていた。   イエスは徴税人に「わたしについて来なさい」と言われた。  

マルコ福音書から(7) 2章1~12  〈家にて〉

2014年12月12日 17:33
  きょうの物語で初めに留意したいのは、「イエスはその人たちを見て」。   イエスが見ているものがある、それは「その人たち」。「その人たち」とは誰であるか、それは病んでいる者を運んできた者たちである。ここでイエスがまずもって見ておられるのは病んでいる者ではなくて、病んでいる者を運んできた者たち。すなわち、イエスが見ておられるのは病んでいる者の周囲にいる者たち。   福音書著者は病んでいる当事者に向き合うイエスを描く前に、病む者の周囲にいる者たちを見ているイエスを描く。著者が入手した物語伝承のイエスは病む者の周囲にいる者たちが病む者にどのように関わろうとしているかを

マルコ福音書から(6) 1章40~45 〈超える〉 

2014年11月07日 15:45
                     物語は重い皮膚病を患っていた人がイエスの所に来たことから始まる。   イエスが行く所には問題を抱えている人々が集まって来る。悪霊に憑依された人、病を患った人が。この時、世にはこのような問題を抱えている人が多く存在しているということが明らかになる。人々の日常の場に問題があっても、問題は取り立てて問題にされることはない。しかし、イエスが日常の場にやって来ることによって問題が問題として明らかにされる。    ここで浮上した問題は重い皮膚病。    当時この病にある人が置かれていた社会的な立ち位置は一言で申せば被疎外。住むのは町の外、公の集

マルコ福音書から(5) 1章21~28 〈悪の霊とのたたかい〉

2014年11月01日 13:05
   きょうの物語は悪の霊を追い出すイエスを描く。   ここに登場する悪霊に憑依された者とは古代オリエント世界に広まっていた呪術にのめりこんでいた者である、と察せられる。   古代オリエントの世界において広まっていたものに呪術があった。その呪術は相手の名を呼ぶことによってその相手を支配し、自分に従わせるとするものであった。きょうの物語に登場する者はイエスの名を呼びイエスを従わせようとしている。この者は呪術にのめり込んでいる者と見てよいだろう。   ここでイエスはこの者を黙らせた。この時、悪の霊は追い出された、と、物語はしている。そうすると、悪霊の追放とは呪術からの

マルコ福音書から(4) 1章16~20 〈招き〉

2014年10月24日 21:00
  物語はイエスが四人の者たちを弟子として招く物語。物語を辿ってみよう。  イエスが四人の者たちを弟子として招いたのは「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」。ここに記された通りであるとするとイエスが四人を弟子として招くときのいきさつは、イエスがガリラヤ湖を歩いているとき、たまたまこの四人に会って、ということになる。   ここで推察するに、弟子として招くのであるからイエスはこの四人についてあらかじめ調べておいたのではないか。弟子であることには相当の力量が必要とされることは承知していたはずであるからイエスはこの四人についてあらかじめ調べておいたのではないか。これがごく普通のこ
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