マルコ福音書から(4) 1章16~20 〈招き〉

2014年10月24日 21:00

 

物語はイエスが四人の者たちを弟子として招く物語。物語を辿ってみよう。

 イエスが四人の者たちを弟子として招いたのは「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき」。ここに記された通りであるとするとイエスが四人を弟子として招くときのいきさつは、イエスがガリラヤ湖を歩いているとき、たまたまこの四人に会って、ということになる。

 

ここで推察するに、弟子として招くのであるからイエスはこの四人についてあらかじめ調べておいたのではないか。弟子であることには相当の力量が必要とされることは承知していたはずであるからイエスはこの四人についてあらかじめ調べておいたのではないか。これがごく普通のことで、こう推測してよいだろう。しかし、そういった推察を可能にするものはここの物語にはない。

 聖書の中には、神に仕える者が招かれる物語が相当数あるがそこには一つの特徴が見られる。神が招きをなさるとき、その招かれる者の力量や素質が調査吟味されるというふうではない。一例を挙げる。

 

神の招きの物語で最もよく知られているのは創世記一二章に記されているアブラハムを招く物語。アブラハムは神の祝福を受ける民の初めとなり基となる者として招かれる。アブラハムはこの神の招きに応え出立。このアブラハムの出立は神を信じる信仰者の原型モデルとしての位置を持つに至った。しかしこのアブラハムの出立の直ぐ後に続けて記されていることは、わたしたちをおどろかせる。

 

アブラハムが出立したその辺りの地方を飢饉が襲い、食べ物に困窮。アブラハムはそこでこういうことをする。妻のサラを「自分の妹である」と偽って、エジプトの宮廷に差し出し、その見返りに相当量の食べ物・家畜・財産を得る。物語は神が介入しサラはエジプトの宮廷から解放されたと語る。わたしたちをおどろかせるのは、アブラハムの招きとその出立の物語にすぐ続けて、こういう物語が置かれていることである。

神の招きに応えて出立し神を信じる信仰者の原型モデルの位置を持つに至ったアブラハムが妻のサラを犠牲にして相当量の食べ物・家畜・財産を得る手段をとる。このアブラハム、人間としていかがなものであろうか。わたしたちの問いは、神はアブラハムの人間としての力量や素質をよく調べるべきではなかったか。

 

この読者の疑問は新約聖書の福音書を読み終わったとき生じる。読者はイエスの弟子となった四人の者たちが繰り返し無様な姿を露呈しているのを読むことになる。イエスはこの者たちの力量や素質をよく調べ、吟味するべきではなかったか。これが読者の持つ疑問である。

 

きょうの物語においてイエスの招きに四人が直ちに応じたことが記されているが、これもわたしたちの常識とかけ離れている。この四人はイエスの招きに応え弟子となることについて、そのことの持つ意味や重さを考え、自分の力量を判断し、慎重に時間をかけて熟考判断すべきであった。それが常識というものである。しかし、四人はそれをせず直ちに応じている。

 マタイ福音書一四章にこういう物語がある。

 

湖を舟で渡ろうとしている弟子たちが逆風に遭い立ち往生しているとき、イエスが湖の上を歩いて近づいて来る。このときペトロは「わたしも湖の上を歩いて、そちらに行かせてください」と願う。イエスは招く。ペトロは舟から降りて湖の上を歩き始める。が、強い風と高い波が怖くなり溺れかかる。ペテロは叫ぶ、「主よ、助けてください」。

 

ペトロが「わたしも湖の上を歩いて、そちらに行かせてください」と願ったとき彼は自分にこれを成し得る力量があるかどうか検討吟味していない。それをしていたら嵐の湖に舟から降りるなどということはしなかったろう。そして風と波を恐れ溺れかかる無様な姿を皆の前で示すことにはならなかったろう。その場合「主よ、助けてください」と叫ぶ無様な姿をさらけ出すことはなかったろう。

 

福音書が無様な姿を示すペトロを描くのはここだけではない。決定的な場面ではそうなのである。

その代表的な場面は「キリスト告白」の場面。

 

イエスは弟子たちに尋ねる、世間の人々はわたしを誰であると見ているか。弟子たちは世間の人々のイエスについての見方を紹介する。そこでイエスは弟子たちに尋ねる、「あなたがたはわたしのことを誰と見ているか」。ペトロが弟子たちを代表して答える、「あなたはキリストです」。イエスはこの後直ちに自分の今後について述べる。自分は必ず苦難を受け抹殺される。ペトロはイエスを制止する、そんなことはあってはなりません。このときペトロはイエスから叱りつけられる、「サタン、引き下がれ」。ここでペトロは「サタン」と言われてしまう。こうまで言われた彼は無様と言うほかない。

 

 いまひとつ代表的な場面を挙げる。

 

ペトロが無様な姿を露呈させているのは、ペテロがイエスについて「あの人のことは知らない」と否認した場面。ペトロはこの自分があまりにも情けなく、ただ泣き崩れるほかなかった。ペトロはここで無様な姿をさらけ出す。この後ペトロは福音書に登場していない。ペトロは無様な姿を露呈したままで舞台を去っている。

 

ペトロは繰り返し無様な姿を露呈する。不名誉この上もないことがペトロにおいて繰り返し生じている。ペトロは惨めな経験を繰り返す。その原因はペトロにある。イエスの招きに応え弟子となることについて、そのことの持つ意味や重さを考え、自分の力量を慎重に時間をかけて熟考判断しておれば、イエスの招きに応え弟子となることはなかったろう。そうしておけば、「あの人のことは知らない」と否認する、こんな情けない自分をさらけ出すことはなかったろう。

 

 イエスにおいてもペトロがこうなることは承知していたのではないか。そうであれば、こういう惨めな経験をペテロにさせないため、彼に対する招きは為すべきではなかったのではないか。無様なことをするに違いない、それが想定され得る、そういう者をよりによって敢えて弟子に招く必要はなかったのではないか。いったいイエスは何を考えておられたのであろうか。いかなる意図があってこうされたのか。読者の疑問とするところである。

 ペトロは無様な経験を通して知らされたことがある。それは自分がいかなる者であるか、いかなる者であるにすぎないか。ペトロはそれを知らされた。その知らされたことの内容についてであるが、それはこういうことであった、と、わたくしは解している。

 

ペトロはあの「キリスト告白」の場面で受難予告のイエスを制止したとき、ペトロの内にあったものが表に出た。ペトロはイエスについて来ているのであるが、苦難を受け抹殺されるイエスについて来ているのではない。そうではなく戦いに勝利する将軍となるイエスについて来ている。言い換えると、ペトロはイエスについて来たのではなく、自分が持っている夢の実現をイエスに期待、つまり自分の夢について来たのである。ペトロはこの自分の夢を実現させるためにイエスを利用していたにすぎない。これがここでペトロに知らされたことの内容である。

 

ペトロはあの「否認」の場面で「ガリラヤのイエス」「ナザレのイエス」との関わりを否認した。そのとき、ペトロの内にあったものが表に出た。ペトロは自分が差別的社会通念に縛られた者であるということ、それがここで明白になった。ペトロはイエスについて歩んで来たがイエスを全く理解していなかったということ、これがここでペトロに知らされたことの内容である。

 

 ペトロは無様な自分を見せつけられることを通して自分がこういう者であること、こういう者でしかないことを知らされた。ペトロにとって無様な自分を見せつけられたことは隠された現実の自分を知らされるという経験であった。もし無様な自分を見せつけられることがなかったとすれば、ペトロは隠された現実の自分を知ることはなかったであろう。

 

 イエスは四人を弟子として招いた。それはイエスの働きを助ける者として、またイエスの働きを引き継ぐ者として招いたと言ってよいであろうが、しかし、福音書を通して見てみると、そう言うよりもむしろ、この四人を無様な姿を見せる者として招いたと言ったほうがより適切な言い方になるのではないか。すなわち、隠された現実の人間の姿を見せる見本の役割を担う者として招いたと言ったほうがより適切な言い方になるのではないか。

 弟子として招かれるとは何をすることに招かれるということであるか。それはイエスの働きを助ける者として、またイエスの働きを引き継ぐ者として招いたと言うことはできるであろうが、それよりもむしろ無様な姿を見せてしまう、そうなってしまう、遺憾ながらそうしてしまうことの中で、隠された現実の人間の姿を見せる見本の役割を担う、そのために招かれたと言ったほうが適切な言い方になるのではないか。

 

もちろん、聖書において登場する神の働きに招かれそれに参画する者たちの皆が皆、無様な姿を露呈する者たちであるわけではない。様になる者たちがおり、その役割を担っている。しかし、どうであろうか。無様な者たちのほうが多い、しかも圧倒的に多い、というのが聖書における事情ではないか。聖書はこの事情を隠さない。しかし、聖書はこの事情を隠さないことによって何を訴えているのであろうか。

 

 言うまでもないことだが、イエスの招きに応じた者は人間なのだから無様な姿を示してもかまわない、そうなるしかない、といった現状追認を述べているのではない。そうではなく、わたくしの理解では、聖書は「恩寵」ということを言おうとしている。

この「恩寵」という言葉は今日では用いられなくなっているが、聖書の使信を言い表すために用いてみたい。すなわち、人知において捉えることはできない、それを超えたところで働く神の恵みの意思、それを言い表す言葉として用いてみたい。

 

イエスの招きに応じた者が心ならずも無様な姿を見せてしまう、そうなってしまう、遺憾ながらそうしてしまうとき、聖書は、その者の無様な姿は人間の現実の姿を明白にするものとしたうえで、その無様な姿を露呈する者を繰り返し新たに招き続ける神の人知を超えた恩寵を語っている。

 

聖書は無様な姿を露呈する者を繰り返し招き、新たに招き続ける人知を超えた神の恩寵の招きを証言する書。この聖書証言を信じて歩む、教会の居場所はそこにしかない、と、わたくしには思われる。