2019年度までの主任担任教師・下田洋一牧師による


「創世記・原初史物語を読む」

「マルコ福音書から」


連載原稿のアーカイブです。


注)創世記・原初史物語を読む                  

*これから創世記の初めのところにある「原初史物語」と称されている、1章から11章の終わりまでのところにしるされている物語を読んでゆく。

*物語にはメッセージが溢れている。ここではメッセージを聴き出すことに集中したい。

*聖書の本文は「新共同訳聖書」の「創世記」を用いることとした。


それではさっそく物語に立ち入ってゆくことに。


礼拝のメッセージから

マルコ福音書より(23)10章46~52  〈何をしてほしいのか〉

2015年10月14日 11:46
イエスはひとりの盲人に問うた、 「何をしてほしいのか。」   この問いは、きょうの物語の前に置かれている物語にもある。10章36節であるが、イエスは二人の弟子たちに同じ問いを向けている。   推察するに、この問い「何をしてほしいのか」が二つの物語を関係づけている。そして、その関係づけは逆対照、つまり逆のものを並べて対照している。    きょうの物語ではイエスの問い「何をしてほしいのか」に対し、ここに登場している盲人は「見えるようになりたいのです」。きょうの物語の前に置かれている物語ではそこに登場している二人の弟子たちは「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあな

マルコ福音書より(22)10章17~22   〈永遠の命〉

2015年09月24日 09:49
ある人がイエスの所に来て問うた、 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」   イエスは答えた、 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。」   この人は答えた、 「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。」   イエスはこの答を聞いて言われた、 「あなたに欠けているものが一つある。持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」   ここでイエスはこの人に財産を手放すことを奨めている。が、はたしてこの奨め自体がきょうの物語のテーマであろうか。   ここで「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいか」の答

マルコ福音書より(21)9章14~29  〈信無き我を助け給え〉 

2015年09月24日 09:48
 物語によると、人々は戻ってきたイエスを見つけて非常におどろき駆け寄ってきて挨拶した、ところが弟子たちはイエスが戻ってきたのに気付かなかった、議論に夢中になっていたからである、とある。   ここには二つのものを比べるという描写の方法がとられている。イエスを見つけて非常におどろく人々と、議論することに夢中になっていてイエスに気付かない弟子たちと、この両者が比べられている。この描写の意図は、弟子たちのこのありようはこれでよいのだろうかという批判にあると思われる。   イエスは弟子たちに議論の内容を尋ねた。そのとき弟子たちは黙っていて、答えられなかった。弟子たちが答えられない理由

マルコ福音書より(20)8章27~33   〈叱りつけた〉 

2015年08月12日 15:13
  イエスは弟子たちに問うた、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか。」 弟子たちは世間の評価を述べる。イエスはそれを聴いた後、弟子たちに問うた、 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」   すると弟子たちを代表してペトロが答えた、 「あなたは、メシアです。」   するとイエスは「ご自分のことをだれにも話さないようにと戒められた。」   ここでイエスはペトロの答えた「あなたはメシアです」をだれにも告げてはならないと言われた。ここの「戒められた」は「叱りつけた」である。つまり、イエスのメシアであることを人々に言うことはイエスによって厳重に禁じられ

マルコ福音書より(19)6章45~52 〈わたしだ〉

2015年08月12日 15:11
  きょうの物語は嵐の海で立ち往生する舟の中の弟子たちにイエスが海を歩き近づいてゆく物語である。   物語は「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せた」「イエスだけは陸地におられた」と記しているところからして、この物語はイエスが弟子たちに嵐の海で立ち往生する体験を敢えてさせた物語、と言ってよいだろう。   そう読んだうえで、この物語のテーマは何であるかを問うとどうなるか。 わたくしの読むところ、この物語のテーマは次のイエスの言葉にあるのではないか。   「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」    福音書はイエスについて証しするとき、イエスは

マルコ福音書より(18)7章24~30  〈しなやかに〉

2015年08月12日 15:10
きょうの物語には女性が登場している。 彼女は多くの困難を抱えていた。   彼女の娘は難病に苦しむ。彼女に経済的な支えとなる者はいなかったと思われる。 当時の社会の父権制の中で彼女は不利な状況を強いられていたことであろう。 以上に加えて、彼女がギリシャ人であったことも、ユダヤ教徒の多住する社会の中においては異邦人として区分けされ、不利な状況を被っていたことであろう。   ここに登場する彼女は、このような事情を抱えていた。 ここで、このような事情を抱えていた女性が、イエスに会いに来た。   彼女はイエスに願いをぶつける。激しくぶつける。 多くの困難を抱えている彼女であ

マルコ福音書より(17)6章30~44  〈あなたがたが食べ物を〉

2015年07月25日 15:27
物語はイエスが大勢の人々にパンを分かち与えた物語。 いまいちどこの物語を読み直してみたい。    次のイエスの言葉に注目したい。 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」   「あなたがた」は弟子たちのこと。イエスは弟子たちに命じる、「あなたがたが食べ物を与えよ」と。このイエスの命令に対し弟子たちは不服を申し立てる。「わたしたちが200デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」弟子たちはなにゆえ不服を申し立てたのか。   ここできょうの物語より前に置かれている物語を読む必要がある。それは6章7~13に記されている物語。それはイエスが弟子たちを

マルコの福音書から(16)5章25~34  〈あなたの信仰〉

2015年07月25日 15:25
一人の女が登場する。 物語は彼女の状況について詳しく記している。    彼女は12年間も出血が止まらず、多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるという状況にあった。物語はこのように詳しく彼女の状況を記している。    福音書にあるイエスの癒しの物語はイエスの言動については詳しく記しているが、イエスの癒しを受ける側の者がいかなる状況であるかについては簡略な描写となっている。その傾向にあるものが多い。しかし、この福音書物語はイエスの癒しを受ける側の者の状況について詳しく記している。この点がこの物語の特徴である。物語はここに使

マルコの福音書から(15)4章1~9 〈悪霊の憑依〉

2015年07月02日 21:12
物語はイエスに近寄って来る人が現れるところから始まる。 イエスに近寄って来た人は墓場からやって来た。この人は墓場を住処としていた。   墓場は命を終えた者の場。この人は命を終えた場の墓場に留め置かれていた。この人はそこで鎖で縛られていた。この人は命を終えていない、生きている。けれども、この人は命を終えた者を置く場の墓場に留め置かれ、そこで鎖で縛られていた。推察するに、この人は社会に出て来ては迷惑であるとされた。この人は社会から隔離され、社会の外に置かれた。そこから出て来ることは困るとされた人であった。    物語によると、この人は自分を縛り付けている鎖を引きちぎったとある。自分の居場

マルコの福音書から(14)4章35~41  〈向こう岸へ渡ろう〉

2015年05月16日 20:42
  物語はイエスが風を静める物語。   「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。」 弟子たちはおどろく、 「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」 イエスは弟子たちに言われた、 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」    弟子たちは風を静めるイエスを見て想起しなければならないことがあった。それは出エジプト記にある物語。   ヘブライ人たちは苦役のエジプトを脱出するに当たり海を渡らなければならなかった。その海は沼地の湖であったようである。追ってきたエジプトの軍隊に
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