マルコ福音書より(17)6章30~44  〈あなたがたが食べ物を〉

2015年07月25日 15:27

物語はイエスが大勢の人々にパンを分かち与えた物語。

いまいちどこの物語を読み直してみたい。

 

 次のイエスの言葉に注目したい。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」

 

「あなたがた」は弟子たちのこと。イエスは弟子たちに命じる、「あなたがたが食べ物を与えよ」と。このイエスの命令に対し弟子たちは不服を申し立てる。「わたしたちが200デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか。」弟子たちはなにゆえ不服を申し立てたのか。

 

ここできょうの物語より前に置かれている物語を読む必要がある。それは6章7~13に記されている物語。それはイエスが弟子たちを宣教に遣わす物語。

物語によれば、弟子たちはイエスが言われたことを実行したとある。物語の結びにはこう記されている、「出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」

 

弟子たちは弟子としての役目を果たした。その果たした役目とは、悔い改めを宣教することであり、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやすことであった。弟子たちはこの宣教体験を通して自分たちの役目が何であるかについて承知することとなった。

 

イエスは弟子たちにさらに役目を与える、

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」

 

これに対し弟子たちは自分たちに食べ物を与える役目はないとした。その理由はこういうことであったと思われる。すなわち、弟子たちは自分たちの役目が何であるかについての認識があった。それは悔い改めを宣教すること、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやすこと。自分たちの役目はこれに尽きると考えていた。これがイエスからのさらなる役目依頼を弟子たちが断った理由であった、と、わたくしは読む。

 

 この問題を考えるために、きょうも旧約聖書に示唆を求める。

 

 聖書の冒頭の創世記には食べ物のことがテーマになっている物語がある。創世記1章には天と地が創られた物語が記され、この天と地の創造の物語の結びに食べ物のことが記されている。人間の食べ物と他の生きるものの食べ物のことが記されている。そこにはこうある。

 

人間の食べ物は「種のある物」とある。「種がある」ということは耕す必要があるということであるから人間の食べ物は耕すという人間の働きを通して得られるとある。これに対して他の生きるものの食べ物は「種のない物」つまり自然に生えてくる物。創世記一章の天と地の創造物語はこのように食べ物について語ることでもって結びとしているのであるが、これは食べ物を適切に配分、配慮することが人間の役目であるとしている、と、ここは解される。

 

ここでさらに読んでおきたいのは、創世記6章からの洪水物語である。そこには食べ物についての配慮が述べられている。

 

この洪水物語は神がノアに箱舟を造るよう命じるところから始まり、ノアは神の命じるところに従い箱舟を造るのだが、その造られた箱舟に入ったのはノアの家族たち、すなわち人間であるが、しかし、人間以外の他の生きものが箱舟に入る。つまり、生存してゆくのは人間だけでなく他の生きもの、それが人間と共に生存してゆく。ここが洪水物語における重要な点である。

 

箱舟には食べ物が運び込まれた。その食べ物はノアの家族たちのため、すなわち人間のための食べ物であるが、しかし、それだけではなかった。人間以外の他の生きものの食べ物が箱舟に運び入れられた。神はノアに命じた、人間以外の他の生きものの食べ物を調達し、それを箱舟に運び入れよ、と。つまり、ノアには、すなわち人間には人間以外の他の生きものの食べ物を配慮する責任があるということ、これが洪水物語において語られている重要な事柄であると言ってよい。

 

 創世記はこのように語っている。食べ物がこの地上世界における最も重要なテーマであること、その食べ物について配慮することが人間の役目であること、人間はこの食べ物についての配慮の責任を人間以外の他の生きものに対し負っていること。

 

 この創世記に呼応しているのが、きょうのマルコ福音書六章の物語である、と、わたくしには思われる。 

 

イエスは弟子たちに命じる、「あなたがたが食べ物を与えよ。」

 

弟子たちはこのイエスの求めに不服を申し立てた。自分たちには食べ物について配慮する役目はない、と。ここで弟子たちは問われる、創世記を読んでいないのか、と。

 ここで、今日の問題を考えたい。

 

 わたくしは或る一人の農を営む方と出会う機会を得た。その方は有機農法によって農の営みをされている。有機農法というのは自然が持っている力に即して為される農の営みのことである。肥料は堆肥を作ってそれを用いる。石油から作られる化成肥料はできるだけ使わないようにする。農薬はできるだけ使わないようにする。除草剤は使わない。むしろ、雑草を最大限利用する。有機農法の農の営みは食べ物を作るに当たり、安全である・美味しい・健康によい、それを目標にしている。

 

わたくしは有機農法の農を営む方と出会い、安全である・美味しい・健康によい食べ物を作ることに努力を続けている姿に接し、人生観を新しくさせられる経験を与えられた。さらに言うと、わたくしの聖書の読み方に新しい変化が起こった。

 

わたくしは思った、イエスは弟子たちに「あなたがたが食べ物を与えよ」と言われた、これを実践しているのは今日では有機農法の農を営む方々はないのか、と。そう思うに至ったわたくしは有機農法による農をしてみようと、それを10年ほど試みた。もちろん、ままごとの域を超えるものではなかったが、安全・美味しい・健康によい食べ物を作るにはどういうことが必要となるかということについて貴重な学習をすることができた。

 

 23年ほど前になるが、新聞にこういう見出しの記事が載った、「有機農法米にセシウム137、化成肥料米の三〇倍」。つまり、有機農法で作った米の方がはるかに危険であるいうことが書かれていた。この記事はデータに基づいてこう記す。なぜこういうことになったか、それはその三年前に起こったチェルノブイリ原発事故、八千キロ離れているが日本に影響を与えている。

 

わたくしは有機農法で作った農産物ほど放射能に汚染されるということを知ってはいたが、それがはっきり示されたのはこの時であった。この新聞記事は原発事故が起これば有機農法をしていても意味がないこと、いや、有機農法は放射能に汚染された食べ物を作るからかえって有害であるということを示している。

当時、ままごとの有機農法の農に取り組んでいたわたくしは放射能汚染の問題の深刻さに関し知識は持っており、原発なるものは廃止すべきだと文章に書き、機会あるごとに訴えてきたが、今振り返って、わたくしのしてきたことは半端な取り組みでしかなかったし、極めて怠慢であったと言うほかない。今日、日本の福島の原発事故は、チェルノブイリから八千キロ離れた日本に影響があったわけであるから、世界のあらゆるところを汚染しているに違いない。わたくしはこの問題に関し本腰を入れて為すべきことを為さねばならないと自らに言い聞かせている。

 

ここできょうの福音書物語の結びを読み、きょうの学びを終えることにしたい。

 

物語によれば、イエスは弟子たちに期待したが拒否された、そこでそこに集まっている人々の中で「パン五つと魚二匹」を持つ者がおり、それを用いて多くの人々に食べ物を分け与えられた。この物語には食べ物のことは自分たちの使命の中にはないとした弟子たちに対するかなり強い批判があると言ってよいのではないか。わたくしにはそう読める。

「食べ物」のことから平和が始まる。平和が始まるために「食べ物」のことに最大の関心が注がれねばならない。聖書はこう語っている。

 

聖書の冒頭の創世記はこれを語ることをもって始めている。新約聖書のマルコ福音書は、この書の主題「神の子イエス」は「食べ物」について配慮する「キリスト」であると証言している。

 

 きょうの福音書物語に記されている、イエスが弟子たちに命じられた「あなたがたが食べ物を与えよ」、このイエスの言葉には今日のわたしたちにとって「霊的指示」、そう呼び得る、それが鳴り響いている、と、わたくしには思われる。