マルコの福音書から(16)5章25~34  〈あなたの信仰〉

2015年07月25日 15:25

一人の女が登場する。

物語は彼女の状況について詳しく記している。

 

 彼女は12年間も出血が止まらず、多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるという状況にあった。物語はこのように詳しく彼女の状況を記している。

 

 福音書にあるイエスの癒しの物語はイエスの言動については詳しく記しているが、イエスの癒しを受ける側の者がいかなる状況であるかについては簡略な描写となっている。その傾向にあるものが多い。しかし、この福音書物語はイエスの癒しを受ける側の者の状況について詳しく記している。この点がこの物語の特徴である。物語はここに使信を託していると思われる。読者はまずこの点に留意すべきであろう。この点に託されている使信を聴き取ることに努めたい。

 人にはそれぞれ物語がある。どの人にも物語がある。人にはそれぞれに固有の事情のある物語がある。その個別の事情、個別の状況をしっかり見つめる。そこを簡略にしない、そこを省略しない。つまり一人一人の人を大切にする。これがこの福音書著者の思想であると思われる。物語が登場人物の状況を詳しく記す、その背後には福音書著者の思想があると言ってよいと思う。

 

 登場人物の状況は医療によって解決されない状況、いやむしろ医療によって苦しめられ、かえって事態は悪くなるだけであるという状況、そういう状況であったと物語は記す。

 

この医療は今日のこととして言えば科学技術の中の一つ。今日科学技術は幸いをもたらした。しかし、科学技術は幸いをもたらすとは限らない。この物語が記しているように、「全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」という状況を科学技術はもたらすことがある。この物語の記述には科学技術なるものが人の生活をますます悪くするとの認識が示されており興味深い。

 物語はこの後、登場する女の行動を記す。

「彼女は群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。」

 

彼女のこの行動はいかなる行動であったか。それは「まじない」のたぐい、呪術の領域の行動であったと言ってよいだろう。

 

 

「鬼ごっこ」という遊びがある。鬼とされる者に触れられると穢れがこちらに移るという遊び。この「鬼ごっこ」という遊びは古い宗教的領域に起源を持つ遊び。ここで彼女の「イエスの服に触れる」行動は「鬼ごっこ」の遊びに示されている「まじない」「呪術」の領域の行動であったと言ってよいだろう。

 

古代ユダヤ教の研究者によれば、ユダヤ教の指導者たちは「まじない」「呪術」がユダヤ社会に蔓延しないよう努めた。その甲斐があって「まじない」「呪術」でもって困った人の弱みにつけこんで利得を得る職業集団はユダヤ社会には成立しなかった。

ここに登場した女の「イエスの服に触れる」という行動は当時においてユダヤ教指導者たちが禁じていたことであった。したがって、彼女のこの行動は承認されるものではなく、いやむしろ「してはいけないこと」であった。

 

ここでイエスは自分に触れた者を探す。しかし、弟子たちは探すことは困難であるとした。多数の者たちから探し出すのは難しいことであるとした。弟子たちは「まじない」「呪術」に頼る次元の者を相手にする必要はない、それよりも会堂長の娘の癒しに少しでも早く駆けつけなければならないとした。しかし、イエスはこの弟子たちを退け、自分に触れた者を探し続ける。

 

ここでイエスは自分に触れた者が自ら名乗り出ることを求める。このことはしかしイエスに触れた者からすれば極めて困難なことであった。というのは、イエスに触れたのは自分であると名乗り出るということは、自分は穢れている者であると名乗り出ることになるし、また自分は他の人に穢れを移すことによって助かろうとした者であるということを公にすることになるからである。これは当時の社会においては「してはならないことをした」ということを公衆の面前で明らかにすることであり、そういうことをすれば、多くの人々の冷ややかな視線を浴び、厳しい咎め立てを受けることになることは必定であった。

 

 イエスは名乗り出る者に困難なことが必定となることを知らなかったはずはない。それがどんなに困難なことであるか、イエスは承知していたに違いない。イエスはそれを承知したうえで敢えてその者が名乗り出ることを求めた。なにゆえであろうか。

 

 彼女は「群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた」。この行動は彼女がいわば陰に隠れて生きる女であったことを示している。

 

イエスは自分の服に触れた者を探し続け、その者に名乗り出ることを求めたのであるが、ここでわたくしの推察を言わせていただくと、この時イエスは陰に隠れて生きる者を表舞台に立たせようとされたのではないか。歴史と社会の表舞台に立って生きることへと押し出そうとされたのではないか。

ここで彼女は「それは自分である」と名乗り出る。

 

物語はこう記す、

「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出て、すべてをありのまま話した。」

 

この時イエスは彼女に言われた、

「あなたの信仰があなたを救った。」

 

ここでイエスは彼女に「あなたの信仰」と言われた。

 

この言葉を聞いたそこに居合わせた者たちはこのイエスの言葉にかなり抵抗を感じたのではないか。彼女のしたことは信仰と呼べるものではない。それは「まじない」「呪術」に頼る次元の信心でしかない。おそらく「あなたの信仰」と言われた当の本人の彼女も自分がしたことは「信仰」と呼べるものではないと思っていたのではないか。 

イエスは彼女の為したことを「あなたの信仰」と言われた。イエスは彼女の為したことが「まじない」「呪術」の次元の信心であることを知らないのではない、そうであることを承知したうえで、イエスは彼女にあなたの為したことは「あなたの信仰である」と言われた。

 

イエスはここで彼女を「信仰の人」と呼び、彼女と真正面から向き合っている。

 

 ここで留意すべきことがある。

 

イエスが彼女に「あなたの信仰」と言われた時、彼女にこう呼びかけている、

「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。」

 

ここでイエスは彼女を「娘よ」と呼んでいる。

 

この「娘よ」という言葉は家族関係を比喩にした表現。彼女が「娘よ」と呼ばれているということは彼女がイエスの家族の一員であること、すなわちイエスの共同体の一員であるということを示している。

 

 ここで彼女がイエスの共同体の一員であることを確認する、それはここでどうしてもする必要があった。

 

彼女は名乗り出た。この後、彼女は色々な問題に直面するに違いない。それは彼女一人に引受けさせておけばよいことではない。イエスは彼女の行動を「信仰」という言葉で表現し、彼女を「娘よ」と呼んだ。彼女はイエスによって信仰共同体の一員であることの確認を受けた。これから後、彼女が直面する困難はイエスの信仰共同体が引き受けることなのである。イエスの彼女への呼びかけの言葉「娘よ」は彼女が今後直面する困難がイエスの信仰共同体の課題であるという認識、それをここで確認している、と、わたくしには思われる。

 

 ここで、次のことにも留意しておきたい。

福音書にはイエスによる癒しの物語が多く記されているが、その中でこの物語に独自の特徴がみられる。イエスの癒しの物語の多くはイエスが癒しの業を為しているのであるが、この物語では女がイエスの服に触れることで癒しは起こった、つまりイエスから行動していない、行動しているのは彼女である。イエスによる癒しを彼女が引き出している。彼女の行動は「まじない」「呪術」の次元の信心であったが、彼女の行動の積極性、それが出来事を生み出す契機となっている。

 

ところで、福音書著者はこの彼女の行動を描く、ここに或る意図をこめているのではないか、と、わたくしには思われる。この物語はこの後に置かれている物語、それは6章1~6にある物語であるが、それと並べられ、比べられているのではないか。

 

6章1~6にある物語の結びの六節にはこう記されている、

「イエスは人々の不信仰におどろかれた。」

 

「人々の不信仰」とはどういうことであろうか。

6章1~6の物語によると、人々はイエスの言葉と行為に対し感嘆の声は挙げるが、この人々はイエスと向き合うことをしない、いわば眺めているだけでしかない。なぜそうなのか。その理由が記されている。イエスが大工の子、マリアの息子であったからである。人々はイエスのしていることを外から見て感嘆の声は挙げるがイエスと向き合うことをしない。この人イエスは大工であり、マリアの子であるからという理由で。わたくしの読みでは、このような人々のありようを指して福音書著者は「不信仰」という言葉を当てているのではないか。

 

きょうの物語に登場する女は行動する。彼女の行動はイエスの行動を引き出す。行動する女を描くこの物語はイエスを眺めているだけでイエスと向き合う行動を起さない人々を描く6章1~6の物語との対比を意図している、と、わたくしは読む。

 

イエスは懸命に自らの問題の解決を求めて行動する女を「信仰の人」と呼んだ。この福音書物語には求道の意欲を失いつつある者たち、学習意欲を失いつつある者たちに対し警鐘を鳴らす、その動機があると思われる。