マルコの福音書から(15)4章1~9 〈悪霊の憑依〉

2015年07月02日 21:12

物語はイエスに近寄って来る人が現れるところから始まる。

イエスに近寄って来た人は墓場からやって来た。この人は墓場を住処としていた。

 

墓場は命を終えた者の場。この人は命を終えた場の墓場に留め置かれていた。この人はそこで鎖で縛られていた。この人は命を終えていない、生きている。けれども、この人は命を終えた者を置く場の墓場に留め置かれ、そこで鎖で縛られていた。推察するに、この人は社会に出て来ては迷惑であるとされた。この人は社会から隔離され、社会の外に置かれた。そこから出て来ることは困るとされた人であった。

 

 物語によると、この人は自分を縛り付けている鎖を引きちぎったとある。自分の居場所を選ぶ自由は奪われていたけれども、この人は自分を縛り付けている鎖は引きちぎった、つまりこの人は最小限の自由は確保しようと抗った人であった。

 この人は昼も夜も叫んでいた。

人は苦しむと、まず呻く、そして叫ぶに至る。この人は強い抑圧、ストレスに苦しみ悶えていた。

 

 この人は石で自分を打ち叩いていた。この人は自分で自分を傷つける行為をしていた。この自傷行為は痛さを感じることを通して自分が生きていることを実感しようとする行為。この人はそこまで追い詰められていた。

 

 イエスはここでこう言われた、

「汚れた霊、この人から出て行け。」

 

このイエスの言葉について考えたい。

 

 イエスはこの人がこうなっている原因を悪霊の仕業であるとした。イエスはこの人がこのようになっているのはこの人に原因があるのではない、悪霊の仕業だとした。このイエスの見方が正しいとすれば、この人がこうなっている責任をこの人に問うことをしてはならないということになる。

 

イエスは言われた、

「あなたがこうなっているのは悪霊の仕業によるのであって、あなたは自分を責める必要はない。」

 

ここに登場しているこの人はこのような考えを持つ人に出会ったのは、このイエスにおいて初めてであったのではないか。

 

この人がこれまで会ってきた人々はおそらく次のような人々であったのではないか。あなたがこうなっている原因は何であるか調べてあげよう、と言い、原因を分析してみせた後、こうなった原因を取り除く努力が必要です、と述べる、そういう類の人々であったのではないか。墓場を住処とするに至ったこの人がここで出会ったイエスはそういった人たちとは違っていた。

この人が出会ったイエスは原因の分析をしてみせる人ではない、そうではなく、この現在の状態を解決する方向に向け労する人。イエスは原因を分析せず、原因を追求せず、つまりこの人の過去を問わず、ただこの現在の事態の解決、そこに向かって労する人である。

 

 イエスはこの人に名を尋ねる、

「自分の名はレギオンです」と答えた。

 

この「レギオン」という名は当時の世界覇者のローマ帝国の軍隊の一個大隊の名称。当時の人々は誰でも知っている名称。ここでわたくしの推察を言うとこうなる。

 

 もしかしたらこの人は、かつてローマ帝国軍隊レギオンの一員であったのではないか。この人はトラブルを起こし解雇されこの職を失ったか、あるいは任務に耐えられなくなってその職を放棄したか、この人はこういった経歴を過去に持つ人であったのではないだろうか。

この人にとって「レギオン」は過去のこと。この人にとってローマ軍隊の一員、これは過去のこと。しかし、この人は「自分の名はレギオンです」と名乗った。これはこの人がローマ帝国軍隊にいた過去に自分を置いていることを示している。

 

この人はなにゆえ自分を過去に置いているのか。

この人は今の自分を忘れるために自分を過去に置いているのかもしれない。この人は過去の自分にしがみつく、そうしなければこの人は今を耐えることができないでいたのかもしれない。過去は人にとって逃げ場、困難な今を耐えるための逃げる場であるからである。

 

人はしかし過去という逃げ場に避難している限り今を変革することへと向かうことはない。人はそれを承知しているが、過去に捕囚とされた状況に陥ると、ここからの脱出は極めて困難、結局過去に連れ戻される。人はなぜこうなってしまうのか。ここには何か超越的な力が関与している、言ってみれば悪霊が憑依しているとでも言わなければ説明がつかないのではないか。

きょうの物語はイエスが人に憑依した悪霊を追い出す物語である。

 

 ここで考えてみたいことがある。

それは悪霊がイエスに対して言っている言葉である。

 

「いと高き神の子イエス。」

 

ここで悪霊が発した「神の子」という言葉はこの福音書ではどういうふうに用いられているか。

 

それは一五章に出てくる。その場面はこうである。

イエスは十字架刑にて絶命する。これを直近で見ていたローマ帝国軍人の百人隊長がこのイエスのことを「本当にこの人は神の子であった」と言った。ここで考えたいことは「神の子」という言葉が出てくる一五章ときょうの物語の五章との関連についてである。

五章の物語の場合「神の子」という言葉は悪霊が追放されたとき悪霊が口走った言葉である。つまり「神の子」という言葉は悪霊が追放されたことを示す言葉となっている。一五章の場合「神の子」という言葉はローマ帝国軍人が発している言葉であって悪霊が言った言葉ではない。この限りで見ると、一五章と五章とは関係するものではない。しかし、ここで考えたいことがある。

 

一五章は福音書の文脈で言うと受難物語の中にある。この受難物語であるが、わたくしの理解を言えば、受難物語は悪霊追放をテーマとしているのではないかということである。一四章から始まる受難物語には悪霊が憑依していると言わざるを得ない者たちが次々に登場してくる。イエスを抹殺しようとする者たち、それに同調する者たち、かれらは悪霊に憑依された人々と言わざるを得ない。

 

わたくしがこの人たちは悪霊に憑依されていたとする理由を言うと、この人たちは集団心理に巻き込まれており、この人たちは集団から離れて家に帰ったら良き父であり、良き夫であり、善良な市民である、そう言ってよいのではないか。受難物語に登場するこの人たちは、イエスを抹殺せよ、この声一色となった集団の中に巻き込まれてしまっている。これは悪霊に憑依された状態であると、わたくしには思われる。

 

 悪霊の憑依ということではイエスの弟子たちについても言える。イエスを売り渡した弟子のユダについても言える。ペトロをはじめとする弟子たち全員についても言える。かれらもまた悪霊に憑依されていたと、わたくしには思われる。

 

わたくしがこれを言うのはこの人々の責任を軽くするとか、この人々の責任を免除するとか、そういう次元でのことではない。そうではなく、この人々の言動の深層にあるものを的確に言い当てたいからである。

 

 受難物語によると、イエスは悪霊に憑依された者たちに取り囲まれる中で悪霊と闘ったわけであるが、イエスは悪霊を追放し得たかというとそうではなく、むしろ悪霊に憑依されたこの世の権力者とそれに同調する者たち、弟子たちによってイエスは追放されてしまった、追放されたのは悪霊ではなくイエスであった。

 しかし、読者はここで受難物語の結びにローマ帝国軍人の告白があることに留意しなければならない。その告白は「この人イエスは本当に神の子であった」。

 

 福音書五章での「神の子」という言葉は悪霊が追放されたとき悪霊が言った言葉である。つまり、「神の子」という言葉は悪霊が追放されたことを示す言葉なのである。そこで、もしかすると一五章でローマ帝国軍人が「神の子」と言ったこの場合も、こう言ったのはローマ帝国軍人であるけれども、この人物に憑依していた悪霊が追放されるに当たって悪霊が口走った言葉であると解釈することができるのではないか。

 

 ローマ帝国軍人の存在は力を持った者が世界を支配するとする価値観を象徴する存在である。ここに登場しているローマ帝国軍人は百人隊長の地位にまで登りつめた、つまり力が物をいう世界でそれなりに成功を収めた人物である。その百人隊長がその価値観を否定する発言をする。

 

「神の子」という言葉はローマ帝国軍人の場合はローマ皇帝にのみ帰せられる言葉、力が物をいう世界で勝利をつかんだ最高実力者にのみ帰せられる言葉。それを承知している百人隊長がローマ帝国の極刑の十字架刑にて処せられたイエスにこの言葉「神の子」を帰した。力が物をいう世界で最も低い者とされたイエスに最高の栄誉ある名称「神の子」を帰した。

 

 ここで、わたくしのマルコ福音書解釈を言えばこうなる。

 

ローマ帝国軍人はイエスのことを「この人は本当に神の子だった」と告白した時、五章の物語において悪霊がイエスのことを「いと高き神の子」と言い放った時に起こったことと同じことが起こった、すなわち悪霊の追放、それがローマ帝国軍人においても起こったということ。

 

この福音書の主題の「神の子イエス・キリスト」の「神の子」は五章と一五章に出てくる。この二箇所とも悪霊に憑依されている者から悪霊が追放される時、「神の子」なる言葉が出てくる。わたくしが今述べたマルコ福音書解釈はここに根拠を置いている。

この福音書著者が福音書主題「神の子イエス」この言葉を登場させるのは、悪霊が追い出される時に悪霊が捨てぜりふとして語る言葉において。つまり「神の子イエス」この言葉はこの福音書においては悪霊の追放が成ったことを示す言葉である。

 

 今日わたしたちは悪霊の支配する世界にいる。巨大なエネルギーを得れば幸せになれるとして進められる巨大なエネルギー政策に悪霊は憑依している。

 

 この福音書によれば、イエス物語を読みイエスの後についてあゆむとき、わたしたちは悪霊の憑依から解き放たれる。