2019年度までの主任担任教師・下田洋一牧師による


「創世記・原初史物語を読む」

「マルコ福音書から」


連載原稿のアーカイブです。


注)創世記・原初史物語を読む                  

*これから創世記の初めのところにある「原初史物語」と称されている、1章から11章の終わりまでのところにしるされている物語を読んでゆく。

*物語にはメッセージが溢れている。ここではメッセージを聴き出すことに集中したい。

*聖書の本文は「新共同訳聖書」の「創世記」を用いることとした。


それではさっそく物語に立ち入ってゆくことに。


礼拝のメッセージから

「水」

2018年01月07日 10:10
1章6~8「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。」創世記の原初史物語はここから天と地の創造について語り始める。物語作者は、神は「大空(おおぞら)」を創造し、これを「天」と名付けたと語る。この「天」と名付けられた「大空」は、物語のここの叙述から言い得ることは、「水」を置く場所として創造された。物語のここの叙述からすると、「水」を置く場所が上方に造られ、下方に造られた。下方はこの後にしるされる「海」のことであるが、上方は「天」(大空)である。つま

「主権」

2017年12月05日 10:12
ここで、1章4~5にしるされているところにあらためて注目してみる。「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」原初史物語における神の創造行為は第一日から第七日に及ぶが、そのそれぞれに「分ける」が出てき、そして分けた後、そこに分けられた双方のものに「名を付け、その名を呼ぶ」がなされている。第一日目は「光・闇」を分け、第二日目は「空・海」を分け、第三日目は「陸・海」を分け、第四日目は「太陽・月」を分け、第五日目は「空と海の生き物を種類」に分け、第六日目は「陸の生き物を種類」に分け、さらに人を「男・女」に分け、第七日目は「安息の日とそうではない日」を分け、このよ

「時間の創造」

2017年10月08日 15:18
1章3「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」 原初史物語の作者は、神の「地」の創造の働きは「光」の創造から始まったとしている。物語作者はここで何を語ろうとしているのか、考えてみたい。それを考えるために、この後に続けてしるされているところをみてみる。1章4~5「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」 ここには、神は光の創造の後、光と闇の間を分けたとある。そして、神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだとある。そうすると、光の創造は「昼」ができることであり、「夜」ができることであるということ

「混沌」

2017年09月11日 09:57
創世記の原初史物語の冒頭には「神は天と地を創造した」とある。前回は「天」に焦点を合わせてみたが、今回は「地」に焦点を合わせ読み進めることに。1章2には「地」について言及されている。1章2「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」ここには「地」の状況が描かれている。それは「地は混沌であって」という状況である。「混沌」は無秩序の極に至った全壊滅の状況を言い表す。では、具体的にはいかなる状況であったか。わたくしはそれを解する手掛かりを〈エレミヤ書4章23〉に求める。そこには地の状況が描かれ、そこも「地は混沌とし」と言い表されている。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空

創世記 1章1 「初めに、神は天地を創造された。」

2017年08月17日 15:15
原初史物語の冒頭で、まず留意したいところは、物語作者が神の創造したものに「天」があるとしているところ。この「天」は、この後しるされているが、「蒼穹・おおぞら」のことを指している。この「天」(蒼穹・おおぞら)であるが、原初史物語の時代の人々にとっては「分からない所」であったという。そうすると、原初史物語の作者が「神は天を創造した」と語ったとき、「神は人間には分からない所を創造した」と語ったことになる。ここではじめに述べなければならないことがある。わたくしはこの「天」というところに関心を持っていなかった。が、ある文章を読んで、それではいけないとおもうに至った。まずはそのあたりのところから述べること

 マルコ福音書から(38)16章1~8 《ガリラヤに行く》

2017年08月10日 10:54
  マルコ福音書の読みは最終章に来た。何が言われているであろうか。三人の女たちが安息日の明けた早朝、取り急ぎ埋葬されたイエスに本格的な埋葬をするべく墓に行く。不思議なことに墓の扉の大きな石は取り除けられていた。三人の女たちが墓に入ると、そこに白い衣をまとった者がいた。その者は彼女たちに言った、「ナザレのイエスに会いたいのであればガリラヤに行くとよい。そこで会うことができる。」ここでわたくしの推量を言うことになるが、三人の女たちはナザレのイエスに会うためにガリラヤに行った。ここで考えたい、「ガリラヤに行く」とはどういうことを意味しているかについて。墓の中の白衣をまとった者は三人の女たちに「ガリラ

マルコ福音書から(37)15章21~32 《自助の思想を棄てよ》

2017年05月27日 14:06
物語はイエスの最期の姿を描く。   そこには十字架につけられたイエスに対する人々の嘲笑と罵倒の言葉が記されている。   「『十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者   たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救った   のに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りる    がいい。それを見たら、信じてやろう。』」    ここには、他人を救ったのに自分は救えない、自分を救えず自分を救わない、そういうイエスが描かれている。   ここに登場する人々は多種多様の人々であり、立場の全く異な

 マルコ福音書から(36)15章6~15 《無権力者》

2017年04月27日 15:46
                  イエスは十字架にて処刑された。 このことについて、改めて考えてみたい。    ローマ帝国が実施していた十字架刑は、国家に反する政治犯に対する刑罰であった。イエスが十字架刑に処せられたということは、国家反逆罪を犯した政治犯とみなされたということであった。    ローマ帝国のユダヤ総督ピラトは、イエスの言動がローマ帝国に対する国家反逆罪に当るかについては疑問を持っていたようである、彼の判断ではイエスが抵触しているのはユダヤの律法であって、したがって、その限りで処すべきことであったとしていたようである。歴史の実際はそうでなかったかもしれないが、

マルコ福音書から(35)15章1~5  《神の沈黙》

2017年02月10日 14:05
                      物語はイエスがローマ帝国のユダヤ総督の官邸にて総督ピラトによって尋問される場面を描く。    ユダヤ体制側はイエスを極刑にせよと迫る。ピラトはイエスに弁明を促す。イエスはそれをせず沈黙する。ピラトはイエスが弁明せず黙っているのか分からなかった。    ここで沈黙するイエスは福音書のこれまでのイエスとは違っている。ここに来るまでのイエスは語る人であり語り続ける人であったが、ここでは語らない人であり、沈黙する人である。この沈黙するイエスを伝えるこの物語は何かを語っていると思われる。    ここはイエスが沈黙する人であることに

 マルコ福音書から(34)14章66~72  〈ガリラヤ者〉

2017年01月28日 09:48
 物語はペトロがイエスのことは知らないと言った物語である。   ここでペトロはイエスとは何の関わりもないと言った。そのとき彼は「呪いの言葉さえ口にした」。このとき彼は自分に嘘があるならこの身が神に呪われてもよいと、そこまで強く言い切った。ここで彼はイエスとの関わりを三度にわたって否定した。三度とは幾度も幾度もという意味。物語はこのようにイエスとの関わりを強く否定するペトロを描いている。    ここは注意して読む必要がある。   ペトロに投げかけられた言葉は 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」である ここを注意して読んでみると、ペトロがイエスとの関わりを否
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