2019年度までの主任担任教師・下田洋一牧師による


「創世記・原初史物語を読む」

「マルコ福音書から」


連載原稿のアーカイブです。


注)創世記・原初史物語を読む                  

*これから創世記の初めのところにある「原初史物語」と称されている、1章から11章の終わりまでのところにしるされている物語を読んでゆく。

*物語にはメッセージが溢れている。ここではメッセージを聴き出すことに集中したい。

*聖書の本文は「新共同訳聖書」の「創世記」を用いることとした。


それではさっそく物語に立ち入ってゆくことに。


礼拝のメッセージから

マルコ福音書から(33)14章60~64 〈イエスはいかなる方であったか〉

2016年12月16日 14:22
 福音書には「イエスはいかなる方であったか」が語れている。福音書には何と語られているか。   福音書の読者としてこの問いの答に接近する方法の一つとして考えられるのは、イエスは十字架刑にて抹殺された、なにゆえそうされたか、その原因を考えることによって、イエスはいかなる方であったのかを知るという方法である。    ユダヤ最高法院の法廷はイエスを有罪にした。その有罪理由は何であったか。 裁判長の大祭司は沈黙を続けているイエスに対しこう尋問した。 「お前は自分をメシアであるとするのか。」   イエスは答えた、「そうです。」   すると大祭司は言った「諸君は冒瀆の言葉を聞いた。」ここで大祭司は

マルコ福音書から(32) 14章53~65  〈受難物語〉

2016年12月01日 15:43
                     物語はイエスを裁く裁判の場面。裁判はイエスを死刑にするためのものであった。これは冤罪裁判と言い得る。    この冤罪裁判で考えたいことは「集団心理」とでも言うべきものについてである。 ここにいる集団の全員が一つの結論しか持っていない。イエスを死刑にすべしという結論を全員が持って、これに異論を唱える者は一人としていない。全員が例外なく集団心理にはまり埋没している。    次に考えたいことは「いじめ」とでも言うべきことについてである。 ここにいる全員がイエスをいじめている。   ここで、いじめの構造について考えておきたい。 こ

マルコ福音書より(31) 14章43~50  〈十二弟子の一人ユダ〉

2016年10月08日 13:43
 物語はユダの裏切りを描いている。    福音書がユダを紹介するとき付けている言葉がある。それは「十二人の一人」という言葉である。   これは必ず付けているので、ここには意図があると思われる。   その意図はユダが行ったことは弟子が行ったこと、ユダの問題は弟子たちの問題である、これを言うためであったと思われる。福音書はユダの裏切りを描くことを通して弟子たちの問題を浮かび上がらせようとしている。   ここで、なぜそうするのか問うておきたい。   福音書の執筆目的はイエスがキリストであることを証言することにある。   ユダの裏切り、すなわ

マルコ福音書より(30) 14章32~42 〈御心に適う〉

2016年08月12日 11:47
                     物語はゲッセマネにおけるイエスの祈りを伝える。    イエスはこう祈った。 「この杯をわたしから取りのけてください。」   このイエスの祈りは何を意味しているだろうか。「この杯」という言葉が意味していることは何であろうか。   このときの状況は、明日は十字架処刑が確実ということであるからして、「この杯」は「十字架処刑」を指していると言ってよいだろう。そうであるとすると、イエスが取りのけてくださいとしていることは、「十字架処刑」という仕方で抹殺されること、これだけは取りのけてくださいとしたということになる

マルコ福音書より(29) 14章22~26  〈最後の晩餐〉

2016年07月16日 11:12
                    物語は「最後の晩餐」と呼ばれている。この「最後の晩餐」の物語を適切に理解するうえで重要となるのは、次のイエスの言葉であると思われる。    「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」   ここでイエスは「神の国が来るまではぶどうの実から作ったものを飲まない」と言われた。このイエスの言葉は、イエスが「神の国が来る」ことを信じていたということを示している。   ここでイエスは、その神の国の到来の暁に催される宴においてぶどう酒が飲み交わされるその場面を思い

マルコ福音書より(28) 14章3~9  〈この人の記念として〉

2016年06月11日 15:31
 一人の女性がイエスの頭に香油を注ぐ。 香油は彼女の中で最も貴重なものであった。それを彼女は用い尽くす。    イエスの語った言葉にこういうのがある。   「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた者を石で打ち殺す者よ。めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはあなたがたの子らを何度集めようとしたことか。」   このイエスの言葉にはイエスのいだいていたメシア像が映し出されている。それは「めんどり」である。ひなを羽の下に集め守る「めんどり」である。   このイエスの言葉はこの福音書にはなく、ほかの福音

マルコ福音書より(27)12章28~34  〈律法学者〉 

2016年05月28日 16:34
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マルコ福音書より(26)12章13~17   〈偶像〉 

2016年03月25日 18:08
 イエスを試す問いが差し向けられた。 「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでし しょうか。」   この問いはイエスを窮地に追い込む問いある。「税金を納めるべき」と答えればローマ帝国の支配を排除しようと闘っているユダヤ民族主義者たちの怒りを招く。「納めるべきではない」と答えればローマ帝国当局による処罰があることは必然であった。   イエスはローマ帝国の通貨を持ってこさせたうえで、質問者たちに問うた。 「これは誰の肖像か。」 彼らは答えた。 「皇帝のものです。」   そこでイエスは言われた。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。

マルコ福音書より(25)12章1~12   〈捨てられた石〉

2016年02月03日 18:29
イエスは彼らに話し始められた。   イエスが話しかけられた「彼ら」とは、きょうの物語のすぐ前に置かれている物語に登場している人々、すなわち祭司長、律法学者、長老たちのことである。彼らは当時のユダヤ社会の指導的な立場にあった人たちであった。   ここでイエスは譬え話をもってその「彼ら」を批判する。   あなたがたはぶどう園の所有者から管理を委ねられている者たちである。しかし、あなたがたはその所有権を奪い取る略奪行為をおこなっている。あなたがたはぶどう園の所有者から管理者であることを罷免される。あなたがたはそういう者たちであると言わざるを得ない  「彼ら」は自分たちを

マルコ福音書より(24)11章1~11  〈驢馬に乗って〉

2015年11月13日 21:17
 きょうの物語は、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城する物語。 イエスは、このとき戦争に勝利した将軍が凱旋行進して入城する、その将軍に自分を模している。   このイエスの振る舞いは、旧約聖書ゼカリア書に記されている預言の実演と言ってもよいものであった。そこにはこう記されている、   「娘シオンよ、大いに踊れ。  娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。   見よ、あなたの王が来る。   かれは神に従い、勝利を与えられた者   高ぶることなく、ろばに乗って来る。」   預言者ゼカリアによると、ろばに乗って凱旋行進する王が来る、という。   このようなことは、こ
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