マルコ福音書より(26)12章13~17   〈偶像〉 

2016年03月25日 18:08

 イエスを試す問いが差し向けられた。

「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでし

しょうか。」

 

この問いはイエスを窮地に追い込む問いある。「税金を納めるべき」と答えればローマ帝国の支配を排除しようと闘っているユダヤ民族主義者たちの怒りを招く。「納めるべきではない」と答えればローマ帝国当局による処罰があることは必然であった。

 

イエスはローマ帝国の通貨を持ってこさせたうえで、質問者たちに問うた。

「これは誰の肖像か。」

彼らは答えた。

「皇帝のものです。」

 

そこでイエスは言われた。

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 

このイエスの言葉はどういう意味であろうか。

 

わたくしが長い間妥当と認めてきた解釈は次のようなものであった。

 

「皇帝のもの」とは政治の領域のこと、「神のもの」とは宗教の領域のこと。それぞれに独自の領域があり、政治に関することは政治に、宗教に関することは宗教にて扱う。そのうえで、「神のもの」の観点から世の事柄を思慮する。

 

わたくしはこれまでこう考えてきた。政治と宗教にはそれぞれに独自の領域があり、その独自性を確認する、そうしたうえで、わたくしはキリスト者であるので、その立地点から政治の問題をとらえてゆく。わたくしはこの考えを今も保持している。

 

しかし、この考えでもってイエスの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」を解釈することは適切ではなく、むしろ間違うことになる、と今のわたくしは考えている。今のわたくしは、このイエスの言葉についての解釈として、新たな新約聖書の学問研究から教示されてのことであるが、次のように解している。

 

「皇帝のもの」はローマ帝国が帝国に居住する者に課す諸々の税金を指している。「神のもの」はユダヤ教徒に求められていたエルサレム神殿に納入する神殿税等を指している。前者はローマ帝国当局が徴収する税金、後者はユダヤ教団当局が徴収する税金である。

 

ここでイエスはローマ帝国当局とユダヤ教団当局の両者に対して「突き放すものの言い方をした」という解釈、すなわち、ここでイエスはローマ帝国が課す税金とユダヤ教団が課す神殿税の両方のどちらが正しいかという次元での問いに対して、それを突き放したという解釈、この解釈が適切であると思われる。

 

そう解釈するのが適切であるのは、この福音書に描かれているイエスの姿の全体がこの解釈を促すからである。

 

税金徴収をおこなうということはそれをおこなう当局が支配体制をもっているということであり、税金徴収をおこなうということは支配をおこなうということである。福音書のえがくイエスは支配をおこなうということに関し否定的である。どのような支配体制であれ、支配する体制は全て認めない、これが福音書のえがくイエスである。

 

 きょうの物語においてもイエスはローマ当局に対してもユダヤ当局に対しても、支配をおこなう当局であるゆえ、両者に対して否であるということ、イエスはそれを突き放す言い方で示したということではないか。

 

 この福音書はイエスが受難予告をした八章から明瞭にさせてきていることがある。それは支配あるいは権威に対し批判的な見方をはっきり示してきている。

 

10章では、イエスは指導者になることを願う弟子たちに仕えることを教え、支配する側に立つのを拒む人間になれと言われる。

 

11章では、エルサレムに入城するとき荷を負う驢馬に乗ることでイエスは仕えることを教えている。このことは支配する側に立つことを拒む人間になれということの教えであったと言ってよいのではないかと思う。

 

12章では、イエスは当時のユダヤ社会の指導者たちを批判したために捨てられることになるのであるが、ここも支配する人間に対するイエスの批判が描かれていると言ってよい。

 

きょうの物語も、税金徴収の問題でイエスを窮地に立たせようとした者たちに対し、それがローマの当局者たちに対してであれ、ユダヤの当局者たちに対してであれ、いずれに対しても支配するということをおこなっているゆえに、イエスは否であるということを明らかにした、それを伝える物語であると言ってよい。

 ここで旧約聖書を参照しておきたい。

 

イスラエルの民は神ヤハウエと誓約した。

民は、その誓約の証しに「十の言葉」を守るとした。それは「十戒」という名で知られている。

 

わたくしの理解では、これはイスラエルの民の中で「支配」ということが生じないためにもうけられたものであった、と考えている。

 

ここで、わたしの理解する線で「十の言葉」の初めのところについて述べると、

「十の言葉」は、支配と被支配の関係が生じないためにはまずは「偶像」なるものを生じさせないことであるとしている。

 

ここで「偶像」の意味はただ単に形の偶像のことではなく内容の偶像、すなわち神でないものを神にする、つまり偽りの神、嘘の神のことを言っている。

 「十の言葉」の第一は「我のほか何者も神としてはならない」。

 

「我」のほかの者を神にしてはならないとはどういうことか。

 

ここで言われている「我」とは「苦役からの解放を実現した方」ということ。したがって、苦役、束縛、抑圧、支配を行うことになる者を神にしてはならないということがここで言われていることであると言ってよい。このことが支配を生じさせない第一のことであると「十の言葉」は述べる。

 

「十の言葉」の第二は「偶像を造ってはならない」。

 

人間集団で指導者が必要となることがあるが、この者に権威を持たせ過ぎこの者を自由に批判する空気がなくなる、また、人間集団で「法律」が必要となることがあるが、これに権威を持たせ過ぎ律法主義の空気を生じさせる、こういうことが生じないようにする、これが支配を生じさせない第二のことであると「十の言葉」は述べる。

 「十の言葉」の第三は「神の名をみだりに唱えてはならない」。

 

ここで言われていることは自分の主張をするときに神の名を唱えてはならないであるが、このことは権威を背にして物を言うこと、それをしてはならないということ。神の名を利用する、すなわち絶対とされているものを利用する、その絶対の権威を利用して自分の主張を相手に有無を言わせずに通してゆく、これが生じないようにする、それが支配ということが生じさせない第三のことであると「十の言葉」は述べる。

 

旧約聖書は、イスラエルの民は支配・被支配のない関係をつくるため、この卓越した思想を掲げて歩んだ、と記す。しかしまた、それと同時に旧約聖書は、イスラエルの民の指導者のほとんどが支配をしたいとする欲求に負け、イスラエル共同体はこれを是正しようと努力したがうまくゆかなかった、と記す。旧約聖書は、イスラエルの民が支配・被支配の無い関係をつくろうとしたがそれができず、負い目を負うことになった、と記す。

 

イエスはこの旧約聖書の記すところ、すなわち良き目標を掲げて歩んだが負い目を負うことになったイスラエルの民の歴史を承知している。イエスはそのうえで語っている。

 

きょうの福音書物語には、支配する人間、権威によって威圧する人間、言い換えれば「偶像礼拝」の人間に対する批判を行うイエスが描かれている。この福音書語によれば、イエスに招かれそのあとについてゆくということは、支配・被支配の関係を無くし、それを超えたところで成り立つ関係の構築へと向かう道に入るということ、こう言ってよいと思う。

 

 ここで「途上」という言葉を用いたい。イエスに招かれそのあとについてゆくわたしたちは支配・被支配の関係を無くしそれを超えたところで成り立つ関係の構築へと向かう道を歩んでいるが、その「途上」にある。この道の途上にあって大切なことは、「息を切らさないこと」、と言ってよいだろう。