マルコ福音書から(32) 14章53~65  〈受難物語〉

2016年12月01日 15:43

                   

 物語はイエスを裁く裁判の場面。裁判はイエスを死刑にするためのものであった。これは冤罪裁判と言い得る。

 

 この冤罪裁判で考えたいことは「集団心理」とでも言うべきものについてである。

ここにいる集団の全員が一つの結論しか持っていない。イエスを死刑にすべしという結論を全員が持って、これに異論を唱える者は一人としていない。全員が例外なく集団心理にはまり埋没している。

 

 次に考えたいことは「いじめ」とでも言うべきことについてである。

ここにいる全員がイエスをいじめている。

 

ここで、いじめの構造について考えておきたい。

ここでイエスをいじめている者たちは普段はいじめられている者たちである。この者たちは自分よりも弱い者に対し、いじめられていることの鬱憤を晴らす。

 

ここでイエスは、集団心理に埋没した者たちの集中砲火を浴びている。また、いじめの構造にはまり込んだ者たちの鬱憤晴らしを集中的に受けている。ここでイエスは沈黙している。どうしてであろうか。

 

 福音書の一四章から始まる受難物語にはいろいろな人々が登場しているが、そのいずれの人たちも自分の問題性があらわにされる。きょうの物語の場面もその場面。イエスが沈黙している間に起こったことは、ここに登場した人々の持つ問題性があらわにされたということであると言ってよい。

 

 イエスはなにゆえガリラヤを去ってエルサレムに行くことにしたのか。なにゆえ苦難が待ちうけるエルサレムに敢えて向かったのであろうか。

 

弟子たちは事の全てが終わってからその理由を知った。イエスが苦難の待つエルサレムに行ったのは、人々の持つ問題すなわち人間の持つ問題性をあらわにするためであったということを。

 

弟子たちは知った。イエスは隠れていたものをあらわにする方、この方に出会うということは、隠れていたものがあらわにされるということを。 

 

きょうの物語をさらに読み進めてみよう。

 

 この裁判を司る大祭司はイエスに対し「おまえはメシアなのか」と尋問した。これはイエスを死刑にする最後に残った方法であった。イエスが「そうだ」と答えれば自分を神にすることになり、ユダヤ法に照らして最も重い罪を犯したとすることができる。また、このことはローマ帝国の法に照らして皇帝よりもさらに上にあるとすることになるので帝国に逆らう犯罪者にすることができる。この大祭司の尋問は罠にはめるためのものであった。

イエスはこれまでも幾度も罠にはめるための問いを仕掛けられてきたが、その度毎に機知に富んだ仕方でかわしてきた。まともに応じる必要のないものであったからだ。

 

しかし、イエスは、ここでは大祭司が仕掛けてきこの罠にはめるための尋問にまともに応じ、「そうです」と答えた。

 

ここでイエスはさらにこう言うのであった。

「あなた方は、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」

 

このイエスの言葉は旧約聖書のダニエル書に記されているメシア到来についての預言である。ここで、この預言で言われている到来するメシアとはいかなる存在として言い表されているか、それを確かめることにしたい。

 

ダニエル書に記されているメシア預言は古代オリエント世界の時代状況を背景としている。

古代オリエント世界に巨大な帝国が次々と登場した。小さな国や小さな民族は過酷な抑圧の下に置かれた。ユダの民もその一つであった。ダニエル書が待望したメシアはそれらの巨大な国家の暴力を解体するメシアであると描かれている。

 

ここでイエスはそのメシアを自分に重ねた。

 

しかし、このことに実質上の意味は何もない。というのは、ここにいるイエスは捕縛され、死刑宣告を下されることになっているだけの存在であるから。大祭司は、ここでイエスが自分をダニエル書の預言したメシアであるとした、それを聞き、笑いながら、イエスに死刑を宣告したことであろう。

 

この場にいた者たちはイエスに暴力の限りを尽くす。

「ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、『言い当ててみろ』と言い始めた。また、下役たちはイエスを平手で打った。」

 

 この物語場面を読むと、わたくしに思い出されることがある。

 

わたくしが教員をしていた神学校では待降節が来ると待降節礼拝をし、その礼拝の後に学生のみなさんが楽しい時間をつくってくれていた。

 

ある年のこと、ある学生が独り芝居をした。それはきょうの聖書の物語にあることを演じるものであった。彼はこの物語に登場する人物を独りで全て演じた。

 

イエスを十字架刑に追い込む画策をした祭司長・長老・律法学者たち、イエスを犯罪人にするための偽証をした者たち、死刑を宣告する大祭司、イエスに唾を吐きかけ、イエスを平手で打った下役たち、イエスのことは知らないと言ってしまった弟子のペトロ、そして受難するイエス、彼はこれらの人物に合う衣装を次々に着ては取り替え、独り芝居をした。

 

彼はこの登場人物の全てを演じた後、わたしたちに向ってこう問うた。

「皆さんはこの物語に登場する人物のうち、どの人物に自分は近いと思うか。」

彼はこう問うて独り芝居を終えた。

 

この彼の問いはわたくしの肺腑を突いた。自分はもちろんイエスと重ねることはできない。自分がその場にいたら誰に相当するか。自分は大祭司ではないだろう。イエスに唾をかけるまではしなかったであろうが、偽証する者の一人ぐらいにはなっていたかもしれない。いずれにせよ、自分がそこにいたら、この中の加害者の一人となっていたことは間違いない。

 

彼の独り芝居は聖書の物語に書いてある通りのことをそのまま演じたものであったが、まさにそうであったがゆえにと言うべきである、彼の独り芝居はわたしたちに気づかせてくれたものがある。それは、聖書の物語はわたしたちを「罪の告白」へと招くということである。聖書物語をそのまま演じた彼の独り芝居は、わたくしにこのことをあらためて気づかせてくれた。

 

わたくしは、きょうの福音書物語がイエスの苦難を通して人間の問題その罪をあらわにするものであることは承知していたが、この一人の学生の独り芝居を通して、きょうの福音書物語がわたくしに罪の告白へと至らせる力があることを知った。

 

その後わたくしはこの罪の告白に関しさらに思い至ることになる。それを述べきょうのしめくくりとしたい。

 

わたくしがさらに思い至ることになったことは、歴史的現実である国家の犯した罪のことである。

 

わたくしはこの点で忘却されてはならない記憶されるべき記号があると考える。

 

それはまず「八・一五」という記号である。この記号は一九四五年八月一五日敗戦記念日を指す。この記号はこの国日本が犯した国家としての罪を記憶し、そこから物事に取り組む、そのために忘却されてはならない記号である。

わたくしはこの記号に加えてもう一つ加わったと考える。それは「三・一一」である。

この記号は2011年3月11日東日本大震災とそれによって生じた原子力発電所の破壊が生じた日を指す。この記号はこの国日本が国策を間違えたその罪を記憶し、そこから物事に取り組む、そのために忘却されてはならない記号である。

 

 きょうの福音書物語は人間の問題その罪を克明に描き出し、この物語を読む読者に罪の告白へと招きそれへと至らせるのであるが、読者の一人のわたくしには歴史的現実である国家の犯した罪のことへと思い至らせる。

 

きょうの福音書物語は、わたくしには、忘却されてはならず記憶されるべき二つの記号「八・一五」「三・一一」を思い起こさせてくれる物語となった。