マルコ福音書より(28) 14章3~9  〈この人の記念として〉

2016年06月11日 15:31  一人の女性がイエスの頭に香油を注ぐ。

香油は彼女の中で最も貴重なものであった。それを彼女は用い尽くす。

 

 イエスの語った言葉にこういうのがある。

 

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた者を石で打ち殺す者よ。めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはあなたがたの子らを何度集めようとしたことか。」

 

このイエスの言葉にはイエスのいだいていたメシア像が映し出されている。それは「めんどり」である。ひなを羽の下に集め守る「めんどり」である。

 

このイエスの言葉はこの福音書にはなく、ほかの福音書にある。この福音書の著者はこのイエスの言葉を伝える伝承を知らなかったようだ。しかし、ここに登場したこの女性はこのイエスの言葉を知っていた、と、わたくしは推測している。

 

彼女はイエスにおいて「めんどり」をみていたのではないか。ひなを羽の下に集め守る「めんどり」をみていたのではないか。

 

この福音書の描写方法の一つに、全く異なる物語を並べるという方法がある。ここもそれが採用されているようだ。きょうの物語とこの後の物語は全く違った物語、それが並べられている。

 

この後の物語ではイエスの一二人弟子の一人ユダがイエスをユダヤ当局に売り渡し金銭を得るとすることが描かれる。これに対しきょうの物語では一人の女がイエスに「ひなの命を守るめんどり」の姿を見、自分の持てるものをすべて注ぎ出すとすることが描かれている。ここにはまったく異なる物語が並べられている。

この時代、メシア運動が興隆していた。ローマ帝国支配に抗いこれを排除するメシア運動が興隆していた。メシアであると名乗りを上げる者たちが現れていた。そのメシアたちはそのほとんどが武装蜂起の抵抗運動者たちであった。

 

イエスにメシアを見る者たちがイエスの周りに集まって来ていた。その者たちも武装蜂起の抵抗運動をイエスに期する者たちであった。イエスの言動は体制当局に逆らうものとなっていたゆえに、武装蜂起の抵抗運動を期待する者たちがイエスの周りに集まって来ていた。

 

しかし、イエスはそういうふうではない。

 

イエスのなしたことは、社会の内側から外に押し出されていた人たち、あるいは社会の内と外のへりの周縁のところにいる人たち、そこに行って共に食卓を囲むこと、求められて癒しをおこなうこと、であった。それは「めんどりがひなを羽の下に集め守る」、まさに「めんどり」の姿であった。

 イエスに武装蜂起を期して集まった者たちの中にイエスから離れ、イエスを捨てる者がいた。イエスの側近にいた者たちにもそういう者がいた。それを示しているのはイエスの一二人弟子の一人のユダである。

 

ユダはイエスにメシアを見た。彼がイエスに見たメシアはローマ帝国支配に抗いこれを排除する武装蜂起の抵抗運動のメシアであった。ユダはこの夢をイエスに見たのは見当違いであったことを知った。彼はこれまで費やしてきたものを取り返すべくイエスを金銭交換し当局に渡した。このユダの行動は、イエスの側近にいた者たちに共通する考えを具体的に現わしたものであったと言ってよいと思う。

 

 このように、きょうの福音書物語の文脈は全く異なるものを並べ問題を浮き上がらせる描写方法となっている。この文脈では全く異なる二者、すなわちイエスの抹殺が起こることが確実となる状況下で全く異なることを為した二者、イエスに起こる死を思い香油を注ぐ「一人の女」と、イエスに見切りをつけ金銭交換によってイエスを捨てた「一二弟子の一人のユダ」と、この全く異なる二者が並べられている。

この福音書著者の採用する描写方法は、きょうの物語から始まる受難物語においても採用されているようだ。

 

 きょうの物語は14章から始まる受難物語の初めに置かれている。この受難物語が終わるのは15章である。その15章の末尾に置かれている物語に登場するのは女である。15章では複数の女たちであるが、その女たちはイエスが十字架にて死んでいく様を見続けていたことが記されている。福音書の受難物語は一人の女の物語で始まり、複数の女たちの物語で締めくくられている。

 

 この受難物語の中間に登場するのは男たちである。その男たちはイエスを捨てる、あるいはイエスを捨てることに加担する、そういう者たちとして登場している。それに対して受難物語の始めと終わりに登場する女たちはイエスを捨てない、イエスを見守り続ける者たちとして登場している。

 

ここにも全く違う存在を並べる描写方法が採用されていると言ってよいと思う。

いま一つこの福音書の描写に関し気付くことがある。

 

 14章から始まる受難物語の初めに登場する女はイエスに香油を注ぐ。受難物語を締めくくる15章の末尾に登場する女たちもイエスに香油を塗るべく登場している。

 

15章末尾の彼女たちは十字架で絶命したイエスが納められた墓を確認し、16章の記すところによると、彼女たちはイエスに香油を塗るべく墓に行く。イエスが不在であったので香油を塗ることにならなかったのであるが、彼女たちは香油を塗る者たちとして登場している。

 

ここでこう言えるのではないか。

受難物語に登場する女たちとは、イエスに香油を注ぎ香油を塗る人たちである。

 

この香油注ぎ、これは何を意味するであろうか。

 

彼女たちの香油注ぎ、これが持つ意味について考えるとき、次の言葉で表現するのがよいのではないかと、わたくしは思う。それは「看取り」という言葉、「病む人を看取る」というときの「看取り」である。

 

 きょうの物語は死にゆくイエスに一人の女が香油を注ぐ物語である。彼女のこの香油注ぎの行為は「看取り」の行為であると言ってよいのではないか。そして、15章の末尾に登場し16章に記されている痛ましく傷つき死人となったイエスに香油を塗ろうとした彼女たちも「看取り」の行為をしようとしたと言ってよいのではないか、とわたくしは思う。

 

 きょうの終わりに一つ加えさせていただきたいことがある。

 

 もうだいぶ前のことで、40年ほど前のことになるが、わたくしの礼拝説教に興味を持たれた精神医療に携わる大学の教師の方がその医科大学でもたれている聖書研究会で話をしてほしいと言われたことがある。

招かれるままその聖書研究会に行き、たしかヨハネ福音書のことを話したように記憶している。その聖書研究会には医科大学の教職員の方々が10名ほど出席しておられた。わたくしは、そこに出席しておられた医学教師の方からその方がなさった講演を記録した冊子をいただいた。そこには「わたしの看護論―死にゆく者に看護は何ができるのか」と題する講演が掲載されていた。

 

わたくしは帰りの道でこの医学教師の講演を読んだ。そこにはわたくしの問題意識を刺激する言葉と文章があった。ここで、講演の中にある医学教師の言葉をひとことだけ紹介する。

 

「人間は限りある命を生きています。その限りある命に最後まで同伴するのは医学、医療ではありません。限りある命に最後まで同伴するのは看護であり、看取りであります。限りある命に医学、医療が及ばないその先に、限りある命に最後まで同伴するのは看護であり、看取りであります。その『看取り』ということについて、自分は学んでいきたい。」

40年前は看護が医者の補助という程度の位置づけであった。ようやく看護、看護学、看護論というものが独立した重要な主題として始まろうとしていた。キリスト者のその医学教師は看護ということ、看取りということの大切さ、重要さをその冊子に掲載された講演で訴えておられ、わたくしは強い印象と示唆を受けた。以来、「看取り」ということについて関心を持ってきた。

 

きょうの福音書の受難物語にはイエスを看取った女たちが登場している。死にゆくイエスを看取り、痛ましく傷ついた死に人となったイエスを看取ろうとした女たちが登場している。この「看取り」、これが受難物語の発しているメッセージの一つではないかと思う。

 

わたしたちは皆、限りある命を生きている。与えられた限りある人生の時を共々に看取り合って生きてゆきたい。