マルコの福音書から(8) 2章13~17  〈わたしが来たのは〉

2014年12月12日 17:35

                   

きょうの物語に徴税人が登場している。

 

 徴税人はローマ帝国が課する税を徴収する職に就いていた。ユダヤの民からすれば搾取と抑圧の支配者に協力する徴税人には軽蔑の視線を浴びせるほかない。徴税人はユダヤの民共同体の外に置かれた存在であった。 

 

この当時ユダヤ民族主義が高まりつつあった。ローマ帝国支配を追い出す反ローマ抵抗運動が熱く燃えつつあった。ユダヤの民の多くはユダヤ民族主義に傾斜しつつあった。この状況が徴税人をユダヤの民共同体から外すことに拍車をかけていた。

 

イエスは徴税人に「わたしについて来なさい」と言われた。

 

これはイエスがユダヤ民族主義者たちによって疎外されている者をイエスの共同体の正式のメンバーに受け入れたことを意味している。ここには社会の被疎外者に心を向けるイエスがいる。きょうは被疎外者に心を向けるイエスについて考えてみたい。

 

ルカ福音書18章にイエスが語った譬えが記されている。

 

二人の者が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人であった。パリサイ派の人はこう祈った、「神様、わたしはほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯した者ではなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」徴税人はこう祈った、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」

 

イエスはこの譬えの結びにおいてこう言われた、「義とされたのは徴税人であって、ファリサイ派の人ではない。」イエスはここで「義とされたのは徴税人であって」と語った。これはこの社会の被疎外者の徴税人に義が与えられるという意味であるが、このイエスの言われたことは極めて重要なことであった。そのわけはこうである。

この民は出エジプトの経験すなわち苦役からの脱出・解放を与えられた民であった。この民はこれを「救い」が与えられたことと受け取ったが、それと同時に「義」が与えられたことと受け取った。この民は人が生きるうえでなくてならないものは「義」であると考えていた。「義」とは人が人として認められる、今日の概念で言えば「基本的人権」のことと言ってよい。この民はあの苦役の脱出・解放において与えられたものは「義」であるとした。

 

しかし、この民は神から与えられた義を保持することができず喪失する。旧約聖書はその経過を記す。旧約聖書はしかしそれと同時に、この民が義の喪失をそのままにしておいたのではないことを記す。義がないということは人として生きることができないということを知っていたこの民は義の回復を懸命に求めた。ただ、この民はそれを律法の遵守において求めたのであった。

 

この民は義を律法の遵守によって獲得する中で、この民に思わぬことが生じた。義の獲得には自己を義とすることが起こる。この自己を義とすることは他者との間に分断を起こすことになる。これはこの民にとって思わぬことであった。この民は義の獲得を律法の遵守に求めたことによって自己を義とする道に入り、民の間に分断を生じさせる道に入り込むこととなった。

 

この分断は義を持っていないとみなされた者を共同体の外に出すことであったから、被疎外者を生じさせた。この分断は疎外する者と疎外される者とを再生産する社会構造の固定化に加担することになった。義がなくては人として生きることはできない。そのなくてならない義が律法の遵守をもってするほかに道がないとすれば、被疎外者を生じさせる分断はどうしても起こらざるをえない。ここで問いが生じる。自己義認を繰り返し、それゆえ分断を生じせしめる人間に、分断を生じさせないで生きる道はあるのであろうか。

 

この問いに正面から取り組んだ人がいる。それは最初期キリスト教の伝道者パウロである。彼が義の問題と取り組んだその実存的告白が彼の書簡フィリピ書に述べられている。

彼は言う、自分は「律法の義については非の打ちどころのない者」であった。彼は律法を完璧に遵守し律法による義の獲得に成功した人であった。ところが、自分は「十字架の言」に出会ったことによって、これまで誇っていた生き方がむしろ断罪に値するということを知るに至った。

 

この彼の言うところを彼の書簡ローマ書などによって補完すると、律法による義の獲得の道は自己を誇ることになるゆえ自己神化に至る。この人間の自己神化が神の被造世界に敵意と分断を引き起こす。そしてこの律法義認の道は人と人を分断し敵対の関係の固定化を生じさせる、このゆえにこの道は断罪に値する。彼は「キリスト・イエス」を知ったことによって価値観の転倒に至ったと告白する。

 

彼はルカ福音書18章に記されているイエスが語った譬え話しに出てくるファリサイ派の者のように律法による義を獲得した自己を誇って生きていたが、これこそが神の前で不義であるということを知るに至った。彼は「十字架の言」に出会って価値観の逆転に至ったと告白する。

彼は渾身の力を込めて語る、キリスト・イエスにおいて示された神による義認、これの受容の道こそが問題を根本的に解決する。彼は語る、律法を行うことによる義の獲得の道は終わった。律法による義の獲得から生じた分断は終わり、分断を乗り越える和解・平和が成就する道が開かれた。疎外する者と疎外される者を生じさせてきた分断の時はしばらくして終わる。

 

ここで、分断を乗り越える和解・平和について語っている、エフェソ書を読んでみよう。

 

著者はこう述べる、「キリストはわたしたちの平和である。キリストはわたしたちの中にある隔ての壁を取り壊した。」この著者の言葉はこう言い直すことができると思う。すなわち、キリストは疎外する者と疎外される者を生じさせている分断を終わらせた。

著者はまたこう述べる。「キリストは新しい人を造り、平和を実現した。」この著者の言葉もこう言い直すことができると思う。すなわち、キリストは「新しい人」において疎外する者と疎外される者を生じさせている分断を終わらせた。

この書簡の著者は、キリストは「平和を実現する新しい人」を造った、と語る。すなわち、「疎外する者と疎外される者を生じさせている分断を終わらせる新しい人」を造った、と語る。ここで読者はこの書簡の著者に対し問わざるをえない。その「新しい人」とは一体誰のことなのか。この書簡の著者はこの書簡で明瞭に答えている、それは「キリスト」のことである、と。

 

ここでわたくしの推量を言わせていただくと、こうなる。

 

この書簡の著者は福音書の伝えるイエスを自分の歴史状況において受け取り直し、それを書簡に記した。福音書の伝えるイエスは徴税人を招き、その家に行き会食するイエスである。すなわち被疎外者に心を向けるイエスである。被疎外者をなくしてゆくイエスである。さらに言えば、疎外する者と疎外される者を生じさせている分断を終わらせようとしているイエスである。この書簡の著者はこの福音書の伝えるイエスを「隔ての壁を取り壊し、敵意を消滅させ、平和を実現する新しい人なるキリスト・イエス」と表現した。

ここで、わたしたちの教会の課題について考えたい。

 

エフェソ書の著者は「隔ての壁を取り壊し、敵意をなくす新しい人」「平和を実現する新しい人」は「キリスト・イエス」ただ独りであると述べるのであるが、そう述べたうえで、その「新しい人」は「キリストのからだとして存在する教会」において働くと述べている。

 

歴史の教会が「隔ての壁を取り壊し、敵意をなくす新しい人」「平和を実現する新しい人」の働く場であったことはない。この書簡の著者の時点でもそうであった。この書簡の著者はこの歴史の教会の現実を知らないわけではない。承知したうえで「キリストの教会」が「隔ての壁を取り壊し、敵意をなくす新しい人」「平和を実現する新しい人」の働く場であると述べる。この書簡の著者はそのことを信仰において語っている。

 

今日の教会の課題はこの書簡の著者の信仰を継承するところから始まる。教会は「キリストにあって新しく創造された人」「隔ての壁を取り壊し、敵意をなくす新しい人」「平和を実現する新しい人」の働く場、この命題をキリストの教会は信仰において受け取り、希望において受け取る。教会はこの信仰と希望に生きる。

 

今日わたしたちは、疎外する者がおり疎外される者がいる社会の差別構造の中に組み込まれている。わたしたち自身疎外される者であるが同時に疎外する者となっている。同時に両者であるというのがわたしたちの現実である。わたしたちがこの現実を認識することで終わらせることなく、この現実社会の差別構造の克服を願うのであれば、わたしたちの道がどこにあるのか探らなければならない。

 

きょうの福音書物語には被疎外者に心を向けたイエスが描かれている。このイエスは今日のわたしたちにとって道となる。このイエスは社会の差別構造に組み込まれ身動きのできなくなっているわたしたちにそれを打開させる道となる。わたしたちはこの道を行くほかない。