マルコの福音書から(11) 3章31~35 〈居場所〉

2015年02月20日 18:27

                  

イエスの家族がやって来てイエスを呼び戻そうとした。イエスはこれを拒み、自分の家族は今ここに居る者たちであると言われた。

 

 きょうの物語のテーマは「家族」に関するもの言ってよいと思う。

わたくしはこの「家族」を「居場所」という言葉に置き換えて考えてみたいと思う。

 

当時、人々の居場所は流動化していたようだ。人々の居場所は通常はまず家族である。しかし、家族が居場所として機能しない状況が生じていたようである。

 

福音書において登場する人々、イエスに関わり合う人々、この人々の中で家が居場所となっていない人々がかなりいるようだ。たとえば、イエスの所にやって来た者たちの中に「子どもたち」がいる。この子どもたちはおそらく家族という居場所を失っていたと思われる。また5章には墓場を住居としている人が登場するがこの人は家族という居場所を失っている。この5章にはその後にも家族という居場所に関することを扱う物語が置かれている。ここで5章に記されている物語を読んでおきたい。

 

イエスは墓場を住居としていた人を癒す。その人はイエスと一緒に行きたいと願う。しかし、イエスはこれを認めないで、自分の家に帰りなさい、家族という居場所に戻りなさいと言われた。つまり、イエスは家族という居場所を重んじておられる、こう言ってよいのではないかと思う。

 

これに続く物語も家族に関係する物語である。

 

ユダヤ教の会堂長をしていた人の娘が重篤な病に陥り、イエスはその娘の病の癒しに向かい、病を癒す。その後、イエスはこの少女を会堂長の家族のところに戻している。ここでイエスは娘の病のゆえに崩れようとしていた会堂長の家族を支えたのである。この物語もイエスは家族という居場所を重んじておられる、こう言ってよいのではないかと思う。

イエスはその途次、難病に苦しむ女の病を癒す。その時イエスは「娘よ」と呼びかけている。「娘よ」と呼びかけたということは、この女がイエスの共同体の一人として迎え入れられたことを示している。ここで重要なポイントは家族という居場所を失った女が新しい居場所を与えられたということにある。この物語に描かれているイエスは新しい居場所を与える方である、こう言ってよいのではないかと思う。

 

新約聖書に頻繁に出てくる言葉の一つに「にあって」という言葉がある。

 

たとえば、パウロは「イエス・キリストにあって」「主にあって」「聖なる霊にあって」という言葉を頻繁に用いている。この「にあって」という言葉は場所を示す言葉、居場所を示す言葉である。「イエス・キリストにあって」は「あなたの居場所はイエス・キリストである」という意味である。

 

新約聖書ではキリスト教信仰とは「イエス・キリストにあること」、つまり「キリスト」という居場所が与えられること、その居場所によって生きるということ。「信仰に生きる」とはこういうことであると語られている。

 

 旧約聖書の創世記に「天と地の創造物語」が記されている。その「天と地」は「居場所」のことである。この居場所を創造したという物語は創世記の初めに登場する。創世記は聖書の初めに置かれている。この居場所創造物語は聖書の初めに置かれている。聖書がまずもって語っていることは、神の創造の働きは何よりもまず居場所を創造することであったということ。

 

この聖書の語りには重要なことが言われていると思う。神は居場所を用意し与える、聖書はまずもって初めにこれを語っている、このことについて留意し、物事をこの観点から考える、これが聖書の求めていることであると思う。

 

きょうの福音書物語を読みなおしてみよう。

 

 3章34節にイエスの語った言葉が記されている。

「イエスは周りに座っている人々を見回して言われた。『見なさい。ここにわ  

たしの母、わたしの兄弟がいる。』」

 

ここでイエスは自分の「周りに座っている人々」を家族と呼んでいる。ここで言われていることは、イエスの周りに座っている人々にとってイエスが「居場所」であるということ。

 

では、イエスを居場所としている人々はその居場所で何をしていたのであるか。

 

32節に記されているところによれば「大勢の人がイエスの周りに座っていた」。ここでおさえるべき点は二つある。一つは「イエスの周りに」ということ、いま一つは「座っていた」ということ。

 

イエスを居場所にしている人々が何をしていたかと言うと、「イエスの周りに居た」ということ、そしてこの人々は「座っていた」ということ。この人々はイエスという居場所では「座っている」のであって何か具体的な活動のプログラムを行っているのではないということ。ただイエスを中心にして座っていただけであるということ。

 

 福音書物語のこの描き方、ここには問題の提起があるのではないか。

 

イエス・キリストの教会はイエスの周りに居る存在である。イエスを中心にして居る存在である。が、実態はそうではなくなっている。イエスから離れてしまっている。こういう問題の提起がなされているのではないか。

 

ここでなされている問題提起はさらに、イエス・キリストの教会は「座っている」、これがまずなされるべきことである。が、実態はそうではなく、立ち振る舞ってばかりいて、座っている者たちに肩身の狭い思いをさせ、脇に追いやってしまっている。こういう問題が提起されているのではないか。

 

わたくしはこの問題に関して、数年前のことであるが、或る人権集会に参加した折り、考えさせられた。それを述べさせていただきたい。

 

その人権集会は大規模な集会であった。いろいろな運動を担っている方々の発題、講演があった。その発題、講演を聞いていて、一つの共通点があることに気付いた。発題、講演をされた方々はいろいろな方面の活動家なのであるがこう言うのであった。

人権を守る運動はまず居場所をつくることから始めるべきだ。人権を守る運動はまず居場所として機能しなければならない。運動はどういう方針か、運動はどう進めるべきか、そういうことよりもまずここが居場所となるかどうかだ。

 

これを聞いてわたくしは考えさせられた。居場所をつくることに人権運動の課題があるということをいずれの方もおっしゃっておられ、ここに今日の社会の問題状況があると改めて認識したのである。

 

 わたくしはこの時期、教会の主日礼拝において取り組んでいたのはヨハネ福音書の14章であった。そこにはイエスの説教が記されているが、それは十字架の死が近いことを前提に後に残される信仰共同体の者たちに対し「居場所」に関することを語る説教。こう記されている。

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。わたしを信じなさい。わたしの父の家には住む所が沢山ある。わたしはあなた方のために場所を用意しに行く。場所を用意したら戻ってきて、あなた方をわたしのもとに迎える。こうしてあなた方はわたしの居る所に居ることになる。」

 

わたくしはこのヨハネ福音書の記すことが理解できないでいた。

ヨハネ福音書によればイエスが十字架刑において死ぬということはイエスが天に帰ることであり、それはイエスを信じる者たちに住む場所を用意するためである。このヨハネ福音書の表現がいかなる思想の影響で書かれているかという釈義的なことは承知していたが、このヨハネ福音書からのメッセージが何であるかということについては聞き出すことができないでいた。

 

しかし、人権集会での発題、講演を聞いて、「居場所」「居場所」とどなたもおっしゃるそれを聞いて、わたくしはヨハネ福音書の言うところが分かってきたように思えた。ヨハネ福音書は「居場所」について語っているということ、この福音書はこれを証言しているということ、そのことにわたくしは気付かされた。

 

わたくしはヨハネ福音書14章の後に記されている15章の葡萄の木の譬えにおいて提示されていることがようやく分かってきた。そこにはイエスの言葉がこう記されている。  

「わたしは真の葡萄の木。わたしに繋がっていなさい。」

 

 きょうのマルコ福音書3章の物語はイエスが居場所について語った物語である。

 

この福音書には居場所について配慮するイエスが描かれている。墓場を住居としている者つまり家族という居場所を失っている者に家族への帰還ができるよう配慮したイエス、これに続けてユダヤ教会堂長の娘の癒しによってその家族を支えたイエス、そして難病に苦しみ家族を失った女に新しい居場所のあることを語るイエスが描かれている。

 

きょうの福音書物語は今日の教会に「居場所」についての映像を提示しているように思う。ここに提示されている「居場所」の映像は、イエス物語を新しく聴くべく集まっている場、そこでは「座っている」だけでよい雰囲気がある場、この映像である。

 

わたくしはきょうの福音書物語からこの映像を受け取るしだいである。