マルコの福音書から(10) 3章1~6  〈会堂にて〉

2015年01月24日 08:35

 

イエスは会堂にいた人々に問いを出す。

「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」

 

 イエスは問う、「安息日で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか」。この問いの答は言うまでもなく「善を行う」ことである。そう答えたら「では、善を行ってはどうか」ということになる。この場合に善を行うということは癒しの業をすることである。そうなると、安息日の定めを破ることになる。

 

イエスは問う、「安息日に律法で許されているのは、命を救うことか、殺すことか」。この問いの答は言うまでもなく「命を救う」ことである。そう答えたら「では、命を救うことをしたらどうか」ということになる。この場合に命を救うということは癒しの業をすることである。そうなると、安息日の定めを破ることになる。

会堂にいた人々はイエスの安息日律法に関わる問いに答えなかった。

どうしてであろうか。

 

物語によると、会堂にいた人々はイエスを訴えようとしていた。人々はイエスを訴えるに当って、安息日の定めに違反する、それを根拠にしようとした。物語の結びは、イエスは安息日の定めに違反したとされ、イエス抹殺の謀議が始まったとある。ということは、安息日律法は罪ありとする根拠に使うことのできるものになっていた、それも人の命を抹殺する謀議を始めさせるほど絶対的なものとなっていた、安息日律法がこれほどに絶対化されていたということである。

 

会堂にいた人々がイエスの安息日律法に関わる問いに答えなかったのは、彼らがイエスを訴え抹殺する根拠にした律法が、自分たちの答え方いかんによっては自分たちを罰するものになるからであった。

 

ここでは安息日律法は人の命を抹殺することのできる絶対的なものとなっている。

ここで考えたいことは「絶対的なもの」について、である。

 

 この問題を扱うために一つの言葉を用いてみることにする。

それは「タブー」という言葉である。

 

「タブー」という言葉は文化人類学で用いられ、しだいに一般的に用いられるようになった。タブーという言葉の意味は神聖なもの・触れてはならないもの・触れたら死は避けられないもの、この禁を破った者は社会から抹消される。

 

 きょうの物語における安息日律法はこの「タブー」という言葉で言い表すことができる。というのは、この物語における安息日は絶対化されており、神聖なもの・触れることができないもの・触れたら死は避けられないものになっていると言い得るからである。

 

このタブーが存在するところでは、絶対に言ってはならない禁句が存在するので、そこは息苦しい、自由のない、重い空気の漂う場となる。そこでは自由に物が言えない、訴えられることを恐れて皆が身を引いている。

 

ここで旧約聖書を参照する。

 

 旧約聖書は王政時代に入ってタブーが発生したと告げているようだ。

ダビデ王については批判的物語がある。この時代においてはタブーの程度はそれほどでもなかったのであろう。しかし、ソロモン王の時代になると、この王に対する過剰な讃美がみられ、王批判がない。ソロモン王に対する批判的言辞は禁じられたのであろう。この時代においてはタブーが社会を覆っていたことを示している。

 

 しかし、旧約聖書にはソロモン批判を暗喩において示す物語がある。創世記3章にそれがある。物語に蛇が登場している。この蛇は「主なる神が造られた野の生き物の中で最も賢いのは蛇であった」とあるが、この「最も賢い」という言葉はソロモン王について言うときに使われる言葉で、「最も賢い」という言葉を聞いた者はソロモン王を思い浮かべる。創世記3章に登場する最も賢い蛇はソロモン王を指す暗喩表現とみてよい。

 創世記3章の物語によると、ソロモン王を暗喩する最も賢い蛇は人間を「知恵の実」を食べることへと誘う。この「知恵の実」の「知恵」であるが、これまたソロモン王の特徴を言うときに用いる言葉である。ソロモン王は知恵に富み、ソロモンに優る知恵ある者はどこを探してもいなかったと旧約聖書は記している。

 

創世記は「知恵の実」を食べた人間がいかに悲惨なことに陥ってゆくかを描く。3章では人は自分の姿を恥じる、すなわち「人は土で造られた」ことを恥じるようになったとあり、人は自らの責任を他者になすり付け責任を回避する。4章では自分たちの息子、兄のカインが弟を殺すということが生じたとあり、これは「知恵の実」を食べたことによって生じたことなのであると創世記は暗々裏に語る。

 

6章では洪水物語において、この地上の生きとし生けるもの全ての生命の途絶の危機が描かれる。物語はこの生命途絶の危機の原因についてこう記している。人の内で権力にある男たちが自分の好みに任せて女たちを支配している、そこに地上の全生命途絶の危機の原因がある。これはソロモンに対する批判である。ソロモンには側女が五百人いたと旧約聖書は記している。つまり、そのソロモンのありように示されている王政がこの地上の生きとし生けるもの全ての生命の途絶の危機を引き起こしていると創世記は暗々裏に語る。

 

 創世記にはソロモンに対する暗喩の方法による批判が語られており、王権に対する批判的知性が存在していたことが分かるのであるが、しかしその批判の方法が暗喩という方法によるものであったということは、ソロモンがいかに絶対的タブーの存在であったかということを示していると言ってよい。

 

旧約聖書には歴史に対する反省が述べられているのではないか。ソロモンを讃美するだけであったために、つまりソロモンをタブーの存在にしたために、ソロモンの知恵が引き起こしてゆくことに対する歯止めを掛けることができず、王国の滅亡にまで至った。旧約聖書を編集した歴史家たちは、ソロモンをタブーの存在としたためにソロモンの知恵が生じさせる破滅に歯止めを掛けることができなかった、それを歴史の事実として確認し、これを繰り返さないために旧約聖書を編集した。わたくしにはそう読める。

ところで、この問題はこの国日本の問題でもある。

 

かつてこの国の憲法は不可侵の存在を定めていた。すなわち天皇がそれである。天皇はタブーの存在であった。天皇を批判することは禁じられた。この国日本はこの憲法規定によって間違いを犯した。その犯した間違いは筆舌に尽くせぬ甚大極まりないものであった。国家の統治に関わる者およびその機構を担う者がタブーの存在となると、いかに甚大な間違いを引き起こすことになるか。この国にいる者たちは痛恨の思いをもって歴史を振り返らざるを得ない。

 

 このタブーの存在の問題は国家権力に常に滞在する問題であるが、平和運動や人権運動、そして教会の中にもあるという体験をわたくしはしてきた。平和運動や人権運動、そして教会の中に権威のようなものが生まれ、自由な批判が消えてゆく、いわばタブーが生じる。平和運動や人権運動、そして教会にこのような空気が生じると、その運動および共同体は崩壊に向かう。運動および共同体にタブーの存在を生じさせない、これが常に注意され留意されなければならないことである。では、そのためには何が必要となるか。ここで、わたくしの考えるところを述べてみることにする。

 

 新約聖書はこの課題すなわち「タブーの存在を生じさせない」に取り組む者に示唆を与えてくれる。それは「柔和な」という言葉である。この「柔和な」という言葉は新約聖書では「権威主義的な」と真逆の言葉である。わたくしにはこの「柔和な」という言葉がタブーの存在を生じさせないために示唆を与えてくれる、と思われる。

 

この「柔和な」という言葉はマタイ福音書11章のイエスの言葉の中にある。そこに

はこう記されている。

 

「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。」

 

ここで「柔和な」は「くびきを負う」と同義。「くびき」は畑を耕す牛を二頭にして引かせるその二頭の牛の首に掛けるもの。したがって、ここで言う「柔和な」とは「荷を共に担う」という意味である。

 

さらにこのマタイ福音書によって「柔和な」をみてゆくと、この言葉が或る動物のことを表現するとき用いられる。イエスはエルサレムに入城したとき「ろば」に乗った。この「ろば」について「柔和な」という表現が用いられる。「ろば」は荷を担う動物。つまり「柔和な」とは「荷を担う」という意味である。

 

 新約聖書ではこの「柔和な」は「権威主義的な」と真逆の意味を持つ言葉。新約聖書はこの「柔和な」が「権威主義的」を克服する。そう語っているように、わたくしには思われる。

 

「タブーの存在」とは「権威主義的」が骨の髄まで浸透した存在と言ってよい。これをなくしていく最も有効なものは「柔和な」ありよう、これをもって対抗することではないかと思う。「ろば」のように「荷を担う」ありよう、これが「タブーの存在」をなくしてゆく最も有効な道である。「タブーの存在」をなくすためにそれに勝る権威で立ち向うということが有効のように見えるが、その結果は、「タブーの存在」がさらに増えるだけで、問題の解決にはならない。

 

 きょうの福音書物語はイエスが安息日の定めを敢えて積極的に廃棄したことを物語る。イエスはなにゆえそうされたか。それは、安息日の定めが人々に恐怖を与え、脅威の存在となり、人々を威嚇し押さえつけるもの、息苦しくさせるものとなっている、すなわち、「タブーの存在」となっている、それゆえイエスは安息日の定めを積極的に廃棄した、こういうことであったと言ってよい。

 

新約聖書の福音書が伝えるイエスのありようは「柔和な」。イエスは「ろば」のように荷を担う。このありようもって「権威主義的」と対抗したのがイエスであった。「タブーの存在」を解体することができる最も有効なものは「柔和な」ありよう、「荷を担う」ありよう。イエスはこのありようをもって「タブーの存在」に対抗した。新約聖書の福音書はこう語っていると、わたくしは読む。

 イエスは威嚇的恐怖の権威統治を終わらせるために、その権威に勝る強い権威をもって向き合ってはいない。そうではなく、その権威とは真逆の「柔和な」「荷を担う」ありようで威嚇的恐怖の権威「タブーの存在」をなくそうとされた。

 

 わたくしは福音書のイエスから問いが差し向けられていると思う。

あなたは「タブーの存在」に「柔和な」をもって対抗する気があるか、と。