記事のアーカイブ

復活日(イースター)礼拝のご案内

2015年03月10日 10:32
復活日(イースター)礼拝は4月5日(日)10:30からです。 その後、愛餐会を予定しています。 どなたでもご参加ください。

受難節

2015年03月10日 10:31
今年の受難節は2月18日から4月4日までです。 礼拝では、イエス・キリストの受難を改めて覚え、その意味するところを考えることとし、マルコによる福音書の受難物語を読んでいます。

福音の香り

2015年03月08日 10:30
  私は『時の徴』の編集同人の一人であるが、その代表であった井上良雄が頑として譲らなかった主張を忘れることができない。それは方法が目的にふさわしいものであること。井上の文章に「犬と呼ばれた警官の問題」がある。そこにはこうある。 或る協議会で九州大学の滝沢克己教授がこういう話をした。三井三池争議の渦中で組合員たちから「犬」と罵倒された警官が「犬にも言わせてほしい」という文章を書いた。これを読んだ滝沢教授は朝日新聞に投書して、これについての労働組合の釈明を求めた。しかし、それはなかった。 この協議会に出席していた井上は次のような発言を聞く。「滝沢教授の取った態度はキリスト者の良心的態度と

マルコの福音書から(11) 3章31~35 〈居場所〉

2015年02月20日 18:27
                   イエスの家族がやって来てイエスを呼び戻そうとした。イエスはこれを拒み、自分の家族は今ここに居る者たちであると言われた。    きょうの物語のテーマは「家族」に関するもの言ってよいと思う。 わたくしはこの「家族」を「居場所」という言葉に置き換えて考えてみたいと思う。   当時、人々の居場所は流動化していたようだ。人々の居場所は通常はまず家族である。しかし、家族が居場所として機能しない状況が生じていたようである。   福音書において登場する人々、イエスに関わり合う人々、この人々の中で家が居場所となっていない人々がかなりいるようだ。

罪について

2015年02月01日 10:30
  キリスト教会は聖書における重要なテーマである「罪」について知っておく必要があるかと思います。 聖書では「罪」は「罪過」として登場、過ぎ去った過去における罪として。人はこの罪過の「負い目」に苦しむことがあります。人は過去にもどれません。負い目を負ったとき、その罪責を認め謝罪するほかありません。この「負い目」の問題はこれ自体重要な事柄であり、機会を改めることにします。 聖書では「罪」は今日の問題として登場し「罪の力」として働いているとしています。この「罪の力」について私達は聖書に即して把握する必要があります。     聖書では「神ではないものが神として支配している事態」、ここに「罪の

マルコの福音書から(10) 3章1~6  〈会堂にて〉

2015年01月24日 08:35
  イエスは会堂にいた人々に問いを出す。 「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」    イエスは問う、「安息日で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか」。この問いの答は言うまでもなく「善を行う」ことである。そう答えたら「では、善を行ってはどうか」ということになる。この場合に善を行うということは癒しの業をすることである。そうなると、安息日の定めを破ることになる。   イエスは問う、「安息日に律法で許されているのは、命を救うことか、殺すことか」。この問いの答は言うまでもなく「命を救う」ことである。そう答え

マルコの福音書から(9) 2章23~27  〈人間と法〉

2015年01月24日 08:33
  「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」    このイエスの言葉は当時の人々、ことに社会の体制を維持している人々を強く刺激した。彼らはこの発言のイエスに対し激しく憤り、イエスを抹消するまでに至った。いったいなにゆえであったか。   「安息日」の規定は特別な意味をもっていた。安息日の規定は自分たちが「神につける民」であることを確認する最も重要な規定であった。この規定の遵守において自分たちが「神の民」であることが確認される。もしこの規定が場合によっては遵守されなくてもよいとなれば、自分たちが「神の民」であることを確認することができなくなり、自分

キリスト教信仰とは何か

2015年01月11日 10:30
  キリスト教の信仰とは何かと問われれば、ナザレのイエスをキリストと信じることであると答えることになる。ではイエスはキリストとして何をするために来たのかと問われれば、イエスは平和を実現するために来たと答えることになるのではないか。 この地上世界は平和ではない。いや平和が壊され続けている。平和を実現するためには壊す力をなくしてゆかなければならない。そのためにはその壊す力の原因を突き止めなければならない。 聖書ではその壊す力のことを「罪の力」と呼び、最初期キリスト教のパウロによれば罪の力が働くのは「律法」においてであるとした。律法は何々をせよ、そうすれば正しさが得られると教える。正邪の区

マルコの福音書から(8) 2章13~17  〈わたしが来たのは〉

2014年12月12日 17:35
                    きょうの物語に徴税人が登場している。    徴税人はローマ帝国が課する税を徴収する職に就いていた。ユダヤの民からすれば搾取と抑圧の支配者に協力する徴税人には軽蔑の視線を浴びせるほかない。徴税人はユダヤの民共同体の外に置かれた存在であった。    この当時ユダヤ民族主義が高まりつつあった。ローマ帝国支配を追い出す反ローマ抵抗運動が熱く燃えつつあった。ユダヤの民の多くはユダヤ民族主義に傾斜しつつあった。この状況が徴税人をユダヤの民共同体から外すことに拍車をかけていた。   イエスは徴税人に「わたしについて来なさい」と言われた。  

マルコ福音書から(7) 2章1~12  〈家にて〉

2014年12月12日 17:33
  きょうの物語で初めに留意したいのは、「イエスはその人たちを見て」。   イエスが見ているものがある、それは「その人たち」。「その人たち」とは誰であるか、それは病んでいる者を運んできた者たちである。ここでイエスがまずもって見ておられるのは病んでいる者ではなくて、病んでいる者を運んできた者たち。すなわち、イエスが見ておられるのは病んでいる者の周囲にいる者たち。   福音書著者は病んでいる当事者に向き合うイエスを描く前に、病む者の周囲にいる者たちを見ているイエスを描く。著者が入手した物語伝承のイエスは病む者の周囲にいる者たちが病む者にどのように関わろうとしているかを
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