キリスト教信仰とは何か

2015年01月11日 10:30

 

キリスト教の信仰とは何かと問われれば、ナザレのイエスをキリストと信じることであると答えることになる。ではイエスはキリストとして何をするために来たのかと問われれば、イエスは平和を実現するために来たと答えることになるのではないか。

この地上世界は平和ではない。いや平和が壊され続けている。平和を実現するためには壊す力をなくしてゆかなければならない。そのためにはその壊す力の原因を突き止めなければならない。

聖書ではその壊す力のことを「罪の力」と呼び、最初期キリスト教のパウロによれば罪の力が働くのは「律法」においてであるとした。律法は何々をせよ、そうすれば正しさが得られると教える。正邪の区別の基準である律法の権威が増大すると律法にそぐわない者の排除が起こる。律法を行うことは最高善であるが、この最高善が律法にそぐわない者を排除・消去・抹殺さえする最高悪を行う。

律法は色々な形を取る。常識や社会通念の形を取ることがある。常識や社会通念は、律法が律法にそぐわない者を排除する、それと同じことをする。常識や社会通念は、律法が行っている最高善が最高悪を行う、それと同じことをする。この常識・社会通念は国家の次元では愛国主義となる。それは「ナショナリズム」と呼ばれる。それが増大すると、これを止めるのは極めて難しい。

 新約聖書の福音書はナザレのイエスが抹殺されたことを記すがこの記述は、当時の社会の支配層がイエスを抹殺するため常識・社会通念・愛国主義・ナショナリズムを総動員したこと、すなわち律法によって行ったことを示している。

福音書の証言によれば、ナザレのイエスは平和を実現するために平和を壊す力をなくそうとされた。イエスは壊す力が律法において働く、律法が壊す力の道具となっていることを洞察された。イエスは律法を無効にする。この意図は律法を罪の力の道具から解放することにあった。当時の社会の支配層はこのイエスを抹殺したが、最初期キリスト教はこのイエスが平和を実現するキリストであると信じた。このイエスは神が遣わしたキリストにほかならないと信じた。

キリスト教信仰とは何であるかの問いへの答えとして、この最初期キリスト教の信仰を紹介するのが最も良いと、わたくしには思われる。