記事のアーカイブ

創立記念日礼拝のお知らせ

2016年06月17日 09:35
中野桃園教会の最初の礼拝は1927年7月10日でした。 以来89年となりました。本年の教会創立記念礼拝は次の通りです。ここにご案内もうしあげます。時:2016年7月3日(日)10:30~11:30 記念礼拝  メッセージ「寄留者として生きる」(下田洋一牧師)   11:50~13:00~ 記念愛餐会 

マルコ福音書より(28) 14章3~9  〈この人の記念として〉

2016年06月11日 15:31
 一人の女性がイエスの頭に香油を注ぐ。 香油は彼女の中で最も貴重なものであった。それを彼女は用い尽くす。    イエスの語った言葉にこういうのがある。   「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた者を石で打ち殺す者よ。めんどりがひなを羽の下に集めるように、わたしはあなたがたの子らを何度集めようとしたことか。」   このイエスの言葉にはイエスのいだいていたメシア像が映し出されている。それは「めんどり」である。ひなを羽の下に集め守る「めんどり」である。   このイエスの言葉はこの福音書にはなく、ほかの福音

祈り

2016年06月05日 10:30
 昨年2015年ノーベル文学賞を受けたのはスベトラーナ・アレクシェービッチ。彼女の作品『チェルノブイリの祈り』を読んだ。 「チェルノブイリ」の原子力発電所が破壊したのは1986年4月26日三十年経った。この作品はこれに関わる人びとの証言を集めたドキュメンタリー文学。 この作品は消防士の妻の証言から始まる。破壊した原子力発電所の炎上する火を消すべく現地に向かい被曝した夫は病み衰え萎え死んでいった。彼女は夫に寄り添い看取り続ける。懐妊していた彼女は女の子を産む。が、四時間後に娘の死が告げられる。放射能がこの子に集中していた。彼女にこのときこう告げられる、娘をわたせない、と。 彼女は

マルコ福音書より(27)12章28~34  〈律法学者〉 

2016年05月28日 16:34
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2016年05月01日 10:30
  新聞で知ったのだが、現内閣は4月1日の閣議で「憲法9条は一切の核兵器の保有および使用を禁止しているわけではない」、ただ「政策的判断として核兵器を保有しないことにしている」、とする答弁書を決定したという。これは言いかえると、「自衛のため」なら核兵器の保有および使用はできないことはない、ということを言ったことになる。 この国の現内閣が核兵器の保有および使用を憲法に反するものではないとするその理由は、憲法は自衛のための戦力を持つことまで禁じているわけではない、それは認めている、それゆえ「自衛のため」の範囲内であれば核兵器を保有し使用しても憲法に反しない。 4月から集団的自衛権

律 法

2016年04月03日 10:30
ナザレのイエスはなにゆえ消されたのか、それは律法をないがしろにしたとみなされたからである。律法は義が何であるかを決める。義が立てられて社会はうまくゆく。義を決める律法を廃棄せよと聞こえるイエスの言葉は反社会的とみなされた。 ところで、イエスを消すことで守った律法とは何であったか。それは「ローマの平和」であった。ローマ帝国に従うなら恩恵として与えられる平和、これが律法であった。イエスは「ローマの平和」という律法をないがしろにするとみなされた。 イエスは消されるべきだと言ったのは大祭司カヤパであったが、彼はこう言った、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがた

マルコ福音書より(26)12章13~17   〈偶像〉 

2016年03月25日 18:08
 イエスを試す問いが差し向けられた。 「皇帝に税金を納めるのは律法に適っているでしょうか。適っていないでし しょうか。」   この問いはイエスを窮地に追い込む問いある。「税金を納めるべき」と答えればローマ帝国の支配を排除しようと闘っているユダヤ民族主義者たちの怒りを招く。「納めるべきではない」と答えればローマ帝国当局による処罰があることは必然であった。   イエスはローマ帝国の通貨を持ってこさせたうえで、質問者たちに問うた。 「これは誰の肖像か。」 彼らは答えた。 「皇帝のものです。」   そこでイエスは言われた。 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。

受難節の中で

2016年03月06日 10:30
今は受難節の中、イエスの十字架死について考えているところを、前号と重なるが、書くことにしたい。   十字架死はローマ帝国に対する国家反逆罪を犯した者への最も重い刑罰。イエスはこの十字架死に自ら進んで向かって行ったという印象を福音書の記述から受けるが、事実その通りであったとすれば、イエスはなぜそうされたのか。   この「なぜ」の問いに対してイエスの十字架死は「罪の償い」のためであったが提示された。これが教会の中心的教理となる。今の私はこれを受け入れていない。理由はイエスを遣わした神が罪の償いを要求する神であるとは思えないし、イエスが罪の赦しを宣言するとき罪の償いを要求していな

2016年3月27日(日) イースター礼拝のご案内

2016年02月10日 17:19
2月14日から受難節が始まります。 イースター(復活日)の礼拝は、3月27日(日) 10:30より行います。 ぜひご参加ください!  

受難節

2016年02月07日 10:30
今年の受難節は2月10日から始まる。 福音書によると、イエスは十字架死を受け入れたとき「御心が成りますように」と祈った。ここで知りたいことは、イエスの言われた「御心が成る」とはどういうことであるのか。 イエスの十字架死の後、このイエスの死を「罪の贖い」のための死であったと受け取った人々がいた。新約聖書がそれを示しているが、そこで言われている「罪の贖い」は「罪の償(つぐな)い」ということであると言ってよいようだ。人々はイエスの十字架死は「罪の償い」のためであったと受け取り、イエスの祈りの言葉の「御心が成る」とは「罪の償い」が成るということであると受け取った。この受け取り方は後に成立するキリスト教
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