記事のアーカイブ

沖 縄

2015年12月06日 10:30
  今この国日本における最大の問題は沖縄の辺野古に米軍基地を日本政府が建設する問題だ。 日本政府は建設を強引に進め、その手法は常軌を逸している。沖縄県の翁長雄志知事は民意に基づき、これを造らせないとして闘っている。新聞報道から想像するに翁長知事は「熱く」しかし「冷静に」闘っておられるようだ。 購読の新聞の報道によると翁長知事は今年9月スイス・ジュネーブでの国連人権理事会で演説しその中で「沖縄の自己決定権」について述べた。この翁長知事の演説は国際法の基本原則を確認したものと言いうる。国連の定める国際人権規約の第一条にこうある、 「全ての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、全て

2015年 クリスマス礼拝のご案内

2015年11月28日 20:23
<クリスマス礼拝> 12月20日(日)10:30~「地下水脈の噴出」 <クリスマス・イブ礼拝> 12月24日(木)18:00~「難民の宗教」   今年は11月29日からアドベント(降誕節)に入ります。 12月には2回にわたり、クリスマスにちなんだ礼拝を予定していますので普段いらっしゃれない方もぜひご参加ください。   ☆今年のクリスマスの飾り付けの様子はこちら(フォトギャラリーの2ページから3ページ)

マルコ福音書より(24)11章1~11  〈驢馬に乗って〉

2015年11月13日 21:17
 きょうの物語は、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城する物語。 イエスは、このとき戦争に勝利した将軍が凱旋行進して入城する、その将軍に自分を模している。   このイエスの振る舞いは、旧約聖書ゼカリア書に記されている預言の実演と言ってもよいものであった。そこにはこう記されている、   「娘シオンよ、大いに踊れ。  娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。   見よ、あなたの王が来る。   かれは神に従い、勝利を与えられた者   高ぶることなく、ろばに乗って来る。」   預言者ゼカリアによると、ろばに乗って凱旋行進する王が来る、という。   このようなことは、こ

責 任

2015年11月01日 10:30
  国会で承認された新安保法が実施されたとき生じうることの一つは次のことである。この国の自衛隊がPKO(国連平和維持活動)に派遣され現地で活動するとき、これまでは正当防衛に限って武器使用を認められていたが、それが大幅に使用可能になる。 現地で内戦が生じ人々が助けを求めて日本の自衛隊の居る所に逃げ込んで来、それを追って民兵集団が攻撃してきたとき、これからの自衛隊はその民兵集団を撃退させるための武器使用を相当程度自由にしてよいということになる。 この場合に次の問題点が生じる。自衛隊がこの事態に直面するのは突如のことであって本国政府に意向をたしかめるいとまはないゆえこれを実施した責任は現地

マルコ福音書より(23)10章46~52  〈何をしてほしいのか〉

2015年10月14日 11:46
イエスはひとりの盲人に問うた、 「何をしてほしいのか。」   この問いは、きょうの物語の前に置かれている物語にもある。10章36節であるが、イエスは二人の弟子たちに同じ問いを向けている。   推察するに、この問い「何をしてほしいのか」が二つの物語を関係づけている。そして、その関係づけは逆対照、つまり逆のものを並べて対照している。    きょうの物語ではイエスの問い「何をしてほしいのか」に対し、ここに登場している盲人は「見えるようになりたいのです」。きょうの物語の前に置かれている物語ではそこに登場している二人の弟子たちは「栄光をお受けになる時、わたしどもの一人をあな

希 望

2015年10月04日 10:30
反安保法案デモ集会に若い人たちの参加が目立った。若い人たちの率直な物言いに新鮮さを感じた。購読の新聞に載っている写真には若い人たちの顔が溢れていた。私はこれまでとは違うものがこの国社会に動き始めているのではないかと思った。 私はこの若い人たちの物言いを私なりに言い直せば「わたしは殺されたくないし、人を殺したくない」。私はこの若い人たちの言っていることに深く感じ入るものがある。 このたび可決された法が適用されたら、殺されるのも人を殺すのもまずは自衛隊の隊員たちである。若い人たちが「わたしは殺されたくないし、人を殺したくない」と言うとき、もちろん自分自身のことを思って言っているにちがいないのだが、

11月8日(日)「永眠者記念礼拝」のご案内

2015年10月01日 14:23
下記の予定で、永眠者記念礼拝を催します。 ・礼 拝 10:30~11:40 ・愛餐会 12:00~13:00 ・メッセージ 「平和」 ・聖書    ヨハネ福音書20章19~23 普段なかなか礼拝にいらっしゃれない方も、この機会にぜひご参加ください。

マルコ福音書より(22)10章17~22   〈永遠の命〉

2015年09月24日 09:49
ある人がイエスの所に来て問うた、 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」   イエスは答えた、 「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。」   この人は答えた、 「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。」   イエスはこの答を聞いて言われた、 「あなたに欠けているものが一つある。持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」   ここでイエスはこの人に財産を手放すことを奨めている。が、はたしてこの奨め自体がきょうの物語のテーマであろうか。   ここで「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいか」の答

マルコ福音書より(21)9章14~29  〈信無き我を助け給え〉 

2015年09月24日 09:48
 物語によると、人々は戻ってきたイエスを見つけて非常におどろき駆け寄ってきて挨拶した、ところが弟子たちはイエスが戻ってきたのに気付かなかった、議論に夢中になっていたからである、とある。   ここには二つのものを比べるという描写の方法がとられている。イエスを見つけて非常におどろく人々と、議論することに夢中になっていてイエスに気付かない弟子たちと、この両者が比べられている。この描写の意図は、弟子たちのこのありようはこれでよいのだろうかという批判にあると思われる。   イエスは弟子たちに議論の内容を尋ねた。そのとき弟子たちは黙っていて、答えられなかった。弟子たちが答えられない理由

「戦後70年談話」

2015年09月06日 10:30
  「戦後70年談話」が発表された。そこに次の文章がある、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」 私はここに「談話」を出した動機があると思った。「談話」は「事を済ませるために」出されたのではないか。 私は苦い経験を思い起こした。それはこういう経験である。 事件が起こった。その事件で被害者と加害者が生じる。被害者は傷をつけた加害者にその旨を言う。加害者は言う「そのつもりはなかった」。被害者はその答えで納得しない。そこで加害者はこう考えるようになる、ここは加害を認めよう、謝罪をせよという要求に応じよう
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