記事のアーカイブ

1517年

2017年03月05日 10:00
わたしたちの教会はプロテスタント教会に属しています。プロテスタントとは抗議をする者といった意味ですが、これはルターがローマ・カトリック教会の一員として問題の提起をしたことからきています。 ルターが言ったことを端的に言うとこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによってのみである。これに対しローマ・カトリック教会が主張したことはこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによることはもちろんだが、神は恵みによって義とされた者が愛の行為をする者になることを期待している、そうなることによって神の恵みは完成する、ルターのように《のみ》と言ってしまうと、人間の応答としての愛の行為はどうで

マルコ福音書から(35)15章1~5  《神の沈黙》

2017年02月10日 14:05
                      物語はイエスがローマ帝国のユダヤ総督の官邸にて総督ピラトによって尋問される場面を描く。    ユダヤ体制側はイエスを極刑にせよと迫る。ピラトはイエスに弁明を促す。イエスはそれをせず沈黙する。ピラトはイエスが弁明せず黙っているのか分からなかった。    ここで沈黙するイエスは福音書のこれまでのイエスとは違っている。ここに来るまでのイエスは語る人であり語り続ける人であったが、ここでは語らない人であり、沈黙する人である。この沈黙するイエスを伝えるこの物語は何かを語っていると思われる。    ここはイエスが沈黙する人であることに

発想の転換

2017年02月05日 10:00
   「コペルニクス的転換」という言葉がある。発想を逆転させるという意味である。地球は動かない、動くのは太陽であるとする考え方からその逆の動くのは地球であって太陽は動かない。こういう発想の逆転を言うときこの言い方が用いられる。   「少数者」の人権を主張し守る運動の歴史の中でこの「コペルニクス的転換」が起って行った。それが起こる前は「少数者」が「多数者」に合わせるため自分を変えるべきとされていたが、それが起こってからは自分を変えるのは「多数者」であるという「発想の逆転」が起こった。   ところが、政治的には、「少数者」を「施設」に収容する、それがおこなわれていった

 マルコ福音書から(34)14章66~72  〈ガリラヤ者〉

2017年01月28日 09:48
 物語はペトロがイエスのことは知らないと言った物語である。   ここでペトロはイエスとは何の関わりもないと言った。そのとき彼は「呪いの言葉さえ口にした」。このとき彼は自分に嘘があるならこの身が神に呪われてもよいと、そこまで強く言い切った。ここで彼はイエスとの関わりを三度にわたって否定した。三度とは幾度も幾度もという意味。物語はこのようにイエスとの関わりを強く否定するペトロを描いている。    ここは注意して読む必要がある。   ペトロに投げかけられた言葉は 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた」である ここを注意して読んでみると、ペトロがイエスとの関わりを否

土の人

2017年01月28日 09:46
 「土人」は人を差別する最悪の言葉であるが、これに「の」を入れ「土の人」とすると聖書の言っている人間のことになる。創世記2章の物語によると人間は「土」で造られている。 「土」の意味は〈もろい〉〈よわい〉。人間が土で造られているということは〈もろい〉〈よわい〉を当たり前のこととする。だが、このことを受け入れることは簡単なことではない。 キリスト教の礎石の位置にある人パウロは重い病いをかかえていた。彼の告白によると、癒されることを繰り返し祈り願った。このことは彼においても〈もろい〉〈よわい〉を当たり前のこととすることが難しかったことを物語っている。 パウロの確信するキリスト教は「人間が義と認められ

マルコ福音書から(33)14章60~64 〈イエスはいかなる方であったか〉

2016年12月16日 14:22
 福音書には「イエスはいかなる方であったか」が語れている。福音書には何と語られているか。   福音書の読者としてこの問いの答に接近する方法の一つとして考えられるのは、イエスは十字架刑にて抹殺された、なにゆえそうされたか、その原因を考えることによって、イエスはいかなる方であったのかを知るという方法である。    ユダヤ最高法院の法廷はイエスを有罪にした。その有罪理由は何であったか。 裁判長の大祭司は沈黙を続けているイエスに対しこう尋問した。 「お前は自分をメシアであるとするのか。」   イエスは答えた、「そうです。」   すると大祭司は言った「諸君は冒瀆の言葉を聞いた。」ここで大祭司は

言葉を出して

2016年12月04日 10:00
  相模原市の施設の「ハンデ」のある方々が殺傷された事件の報に接したとき、わたくしは強い衝撃を受けた。   発言すべき責任があると思いつつ、今日まで言葉が出ないままきた。ようやく言葉を発する思いに漕ぎつけた。ここで書くことはわたくしが今知り得ている範囲でとなる。   殺傷をおこなった人は自分の正義の基準によっておこなった。この人の正義によれば「ハンデ」のある者は抹消されるべきだ。このときこの人は自分を最終決定権のある人間だとしていた。   わたくしは聖書を読んでいる者として、このような最終決定権を持っているとしている者のことを聖書は何と言っているか述べる責任がある

12/24(土) クリスマスイブ礼拝 25(日)クリスマス礼拝へのお誘い

2016年12月03日 12:44
*クリスマスイブ礼拝 12月24日 18時から                メッセージ 「静かな夜の来訪者」 *クリスマス礼拝    12月25日(日) 10:30から                メッセージ 「回心」                クリスマス愛餐会 12:00 どなたでもお越しください。

待降節(アドベント)に入りました

2016年12月03日 00:00
11月27日から待降節(アドベント)に入りました。アドベントとはラテン語で「向こうから近づいてくるもの」という意味。クリスマスまではこのテーマでメッセージが語られます。  

マルコ福音書から(32) 14章53~65  〈受難物語〉

2016年12月01日 15:43
                     物語はイエスを裁く裁判の場面。裁判はイエスを死刑にするためのものであった。これは冤罪裁判と言い得る。    この冤罪裁判で考えたいことは「集団心理」とでも言うべきものについてである。 ここにいる集団の全員が一つの結論しか持っていない。イエスを死刑にすべしという結論を全員が持って、これに異論を唱える者は一人としていない。全員が例外なく集団心理にはまり埋没している。    次に考えたいことは「いじめ」とでも言うべきことについてである。 ここにいる全員がイエスをいじめている。   ここで、いじめの構造について考えておきたい。 こ
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