マルコ福音書から(3)   1章14~15 〈時は満ちた〉

2014年10月13日 15:17

 イエスの活動が始まった。

イエスは宣言する、「時は満ちた」「神の国が近づいた」。

イエスは「神の介入する時」が来たと言われた。

 

 旧約聖書には神の介入を待つ人々が登場している。この人々にとって神の介入の時の到来を告げる報知は「喜びの知らせ」であった。というのはこの人々にとってその時とは「救い」の起こる時であったから。

  

 詩編の第4編にこういう祈りが記されている。

「呼び求めるわたしに答えてください

  わたしの正しさを認めてくださる神よ。

  苦難から解き放ってください

  憐れんで、祈りを聞いてください。」

この詩の作者は苦難からの解放を求めて神に向かって祈っている。一体この詩の作者はいかなる苦難に陥っていたのであろうか。

 

推察するに、この詩の作者は裁判法廷で有罪とされた状況にある、と解せられる。この人は無実であることを訴えたのだが、それを証明することができないため有罪とされ、いわば冤罪の苦難の中にある。(この推察は詩編についての注解書から教示されたもの。この推察は適切と思われる。)

 

この詩の作者は万策尽きて神に訴える、

「わたしの正しさを認めてくださる神よ、苦難から解き放ってください。」

 

この詩人は訴える、一切のことを承知しておられる神が今ここに介入してくださることを、わたしの無実を証明してくださることを、わたしを恥辱から救い出してくださることを、わたしの名誉を回復してくださることを。詩人は懸命に神に訴える。詩はそれを伝えている。

 詩編第5編も同様の事情にある人の作であるようだ。

「主よ、わたしの言葉に耳を傾け 

  うめきを聞き分けてください。 

  わたしの王、わたしの神よ

  助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。

  あなたに向かって祈ります。」

 

この詩の作者も、推察するに、詩編第四編の作者と同じ事情、すなわち、裁判法廷において無実であるにもかかわらず有罪とされ、冤罪にて名誉が損なわれ、恥辱に晒されている状況にある、と解せられる。

 

この詩の作者も万策尽きて神に訴える、

「わたしの神よ、わたしの叫ぶ声を聞いてください。」

 

 この詩人も訴える、すべてのことを承知しておられる神が今ここに介入してくださることを、そして、わたしの無実を証明してくださることを、わたしを恥辱から救い出してくださることを、わたしの名誉を回復してくださることを。この詩人も懸命に神に訴える。この詩もそれを伝えている。

 

福音書の伝えるイエスは「時は満ちた」「神の国は近づいた」と宣言し、「神の介入する時」が来たと言われた。ここでわたくしの推察を述べるなら、イエスがこう言われた時、イエスの胸の内にあったものは、具体的に言えば、旧約聖書に登場する苦難を強いられている人々、ことに詩編に登場する冤罪の苦難を強いられている人々、そういった人々のことであったのはないか。

 

冤罪にて有罪とされ、それを証明する道が全く断たれている。これは人が経験する苦しみの中で最たる苦しみ。この時、人は神に訴えるほかない。イエスが「神の介入の時が来た」と言われた時、イエスの胸の内にあったものは、冤罪の苦難にある人々のこと、理不尽な苦難を強いられている人々のことであったのではないか。これがわたくしの推察である。

 この詩編の作者たちと同じ苦難を強いられた人々、すなわち罪がないのに有罪とされ、冤罪にて命を奪われた人々、かかる人々が人類史においてなんと多く存在してきたことか。今日も存在する。これがわたしたちの人類史の裏面にある歴史事実である。

 

 福音書の伝えるイエスの今生の生の最期の言葉は詩編の一節であった。

「我が神、我が神、何故我を見捨て給いき。」

 

 このイエスの最期の言葉は、冤罪にて生を断ち切られた者が発する神への訴えにほか

ならない。

 

このイエスの最期の言葉はイエスが冤罪にて生を断ち切られ苦難を強いられた者の

一人となったことを物語っている。このイエスの最期の言葉はイエスが活動の初めに「神の介入の時が始まった」と宣言した時以来、関心事の中心を無実の罪にて生を断たれ苦難を強いられた者たちのことに置いてきた、その姿勢を今生の生が終わる時まで続けてきた、イエスとはそういう人であったことを物語っている、と思う。

それゆえ、イエスは生の初めから生の終わりまで、無実であるにもかかわらず有罪と

され、冤罪にて生を断ち切られ苦難を強いられた人々の「同伴者」であった、と言ってよいのではないか。イエスはその人々の理解者であり、その人々に代わってその人々の思いを代弁する語り部として生きた、と言ってよいのではないか。

 

 このイエスとの出会いは冤罪にて苦難を強いられている者にとって、また理不尽な苦

難を強いられている者にとって至福の時、喜びの時であったに違いない。福音書はそれ

を伝えている。

 

しかし、福音書は、その至福の喜びの時が終わるということを記している。福音書はイエスの十字架死においてその至福の喜びの時は終わったと語っている。

 

ここで福音書の読者は問わざるを得ない。イエスのもたらした至福の喜びはイエスの十字架死において消滅した後どうなったのかということについて、わたしたち読者は問わざるを得ない。この福音書の著者はどのように考えていたのであろうか。

この問いに関わるのではないかと、わたくしに思われるのは次の物語である。それは「最後の晩餐」と呼ばれている物語である。その物語には、「最後の晩餐」の席でイエスが語り遺した言葉が伝えられている。それはこういう言葉である。

 

「はっきり言っておく。神の国で新たに飲む日まで、ぶどうの実から作ったものを飲          

 むことはもう決してあるまい。」

 

ここでイエスは「はっきり言っておく」と言われた。「はっきり」と訳された言葉は「アーメン」である。この「アーメン」はイエスが決定的な事を言う時に枕言葉に用いられている。

 

ここでイエスは「神の国が来るまではぶどうの実から作ったものを飲むことはない」と言われた。このイエスの言葉は、イエスが十字架死の後に「神の国が来る」ことを信じていたことを示していると言ってよいのではないか。このイエスの言葉にはイエスの信仰が吐露されていると言ってよいのではないか。

このイエスの言葉は、神の国が到来した暁には祝いの宴が催され、その宴で「ぶどうの実から作ったもの」が飲み交わされる、その光景をイエスが思い浮かべていたことを示している。このイエスの言葉から十字架死の後に「神の国が来ること」すなわち「神の介入の時」が決定的に始まることをイエスが信じていたこと、それをここから読み取ることができるのではないか。

 

 この最後の晩餐でイエスが語った次の言葉は重要である。

 「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

 

ここで「契約」という言葉が出ている。

この「契約」という言葉はイエスの信仰的・思想的基盤である旧約聖書において最も重要な言葉である。旧約聖書が最も中心的な事として述べていることは次のこと、すなわち、「イスラエルの民」の名で呼ばれている民とは神との契約において存在する民、すなわち「契約の民」である。旧約聖書はこの「契約の民」が歴史の曲折の後崩壊したこと、そして、新たな成立が切なる願望であること、それを語っている。

ここでイエスが「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と宣言した時、イエスは「新たな契約の民」の成立を宣言したのである、と解することができる。

 

イエスの信仰的・思想的基盤であるモーセ以来のヘブライ宗教の伝統では、契約に当たって、契約が命懸けの信実なものであることを示すために契約の血が流される。イエスはこの伝統に即して、十字架死において流される自身の血をその契約の際の血であると宣言された、と解することができる。

 

わたくしは先にこういう問いを立てた、

イエスのもたらした至福の喜びはイエスの十字架死において消滅した後どうなったのかということについて、福音書は何を語っているか、と。

 

わたくしの読みでは、福音書著者は「最後の晩餐」においてイエスが語られた宣言の中でこの問いに答えている。福音書著者によれば、イエスがもたらした至福の喜びはイエスの十字架死において消滅したかに見えたが、イエスの十字架死において流された契約の血を介して成立した「新たな契約の民」、これがイエスのもたらした至福の喜びを担う、と。

 

福音書の伝える「最後の晩餐」の伝承は、最初期キリスト教の人々が自分たちの集まりをイエスのもたらした至福の喜びを担う「新たな契約の民」であると自覚した、それを物語っている、と、わたくしには思われる。また、最初期キリスト教の人々はこの「新たな契約の民」の成立に必要な血がイエスの十字架死において流されたということを信じた、と、わたくしには思われる。

 

この「新たな契約の民」は「教会」と呼ばれるようになる。

 

教会はこの「新たな契約の民」に委託された「イエスのもたらした至福の喜び」を担う存在。歴史の教会はこれから遠い存在であったし、今後もそうであろうが、教会はこの存在であるほかない。これは変わることのないことであり続ける。