食す平和 (2023・夏)

2023年08月13日 19:19


『食す平和』         

皆さんいかがお過ごしですか、牧師の縣洋一です。この夏、教会は「平和聖日」の礼拝を持ちました。聖書は「平和を実現する人々は幸いである」と、イエス様が山上の説教で語られたことを記します。しかし、「平和」というその事柄の大きさと、人間の愚かさ、罪深さを前にして、「こんな小さな私たちの手で何が出来ようか」と、無力感にさいなまれます。そんな中、平和聖日に語り継いだのが、通称「善いサマリア人の譬え」と言われる箇所でした。

道端で倒れていた人を前に、祭司とレビ人は「見て見ぬふり」をして行ってしまった。しかし、旅をしていたあるサマリア人は近寄って介抱して上げたというイエス様の譬え話です。特に注目したのが「憐れに思い近寄って」という言葉でした。この「憐れに思い」という言葉、ギリシャ語で「腸(はらわた)がちぎれる思い」「腸が突き動かされて」という内臓と関係している言葉なのです。 

つまりこのサマリア人は、頭ではなく自分の腸の奥底で感じた「震え」をなかったことにせず、一歩近寄った。同じ一歩でも外へなのか、内へなのか。そして、この箇所でイエス様は「善い」「悪い」ではなく「あるサマリア人は」と言われていることにも気づかされます。ボンフェッファーというナチスドイツに反抗し処刑された牧師は、「キリスト者とは、宗教的な人間になることではなくて、単純に人間になるということなのだ。」との言葉を残していますが、まさにこの譬えで言わんとしていることは、「善い者になれ」との叱咤激励ではなく、「はらわたで感じた一人の人間に戻れ」、旅人のような「自由な一歩を持つ者となれ」ということなのだと知らされる時となりました。

さて、昨秋、サツマイモを一畝植え収穫できましたが、先日その喜びを前任地の横浜の信徒で畑に詳しい方に伝えたところ「では行きますよ!」と、自前のトマトやナスの苗を持って畑の作り方を教えに来て下さり「ぐんぐん伸びて行きますよ。できたら皆で食べられますね。」と言いながら帰って行かれました。その後、黄緑から赤に変わって行くトマトの色の変化や、小さく顔を出したナスやゴーヤの実がぐんぐん大きくなるその様に、「どうしてそうなるのか、その人は知らない(マルコ4:27)」と、毎朝水やりの度に驚かされながら収穫の時を待ちました。そして、平和聖日礼拝の後、一籠に集まった「獲れたて」の味に驚かされながら、夏の収穫の喜びを共に分かち合いました。 

今、ロシアのウクライナへの侵略戦争は非人道性を増し、アフリカの人々への穀物の海上輸送路が封鎖され、食料が戦争の駆け引きの道具に使われています。大地にもたらされた豊かな実りが、口に入るまでが平和であることを痛感させられます。闇の深さと速さにうろたえてしまう中で、しかし「あなたの一番奥底にある小さなものの中に、平和を実現していく道がある」ことを、聖書から知らされます。共に食せる平和を祈り求めて参りましょう。