わたしのシェルター

2017年07月02日 10:00

この国の今の政府は秘密保護、安保、共謀罪の法案を次から次へと出し、多数与党はこれを可決。これらは国民の間で賛否がおおきく分かれているもの。当然のことながら国民の間に対立が深まった。が、この対立は今の政府に都合がよいようだ。

今の政府は対立を生じさせ、それによって生じた一定の固定した勢力を政権維持の基盤にする、という手法を取る。この手法はこのあたりでやめさせなければならない。というのは、この手法はやがて「テロ」を生むことになるからである。

わたくしはこのたび大江健三郎の『定義集』(文庫版)を繰り返し読んだ。解説を作家の落合恵子が書いている。その題は〈「意志的な楽観主義」をタイトルに借りて〉。

「意志的な楽観主義」は大江の言葉である。大江は「楽観主義」でゆこうと呼びかける。今の状況は落胆するほかない悲観的状況と言わなければならない。これにめげないためには「楽観主義」でゆかなければならない。ただし「楽観主義」に「意志的」をつけ、「意志的楽観主義」でゆかなければならないと、大江は語る。

解説の落合は「気持ちが後ろ向きになりそうな時、わたしには幾つかの『シェルターのようなもの』がある。『そこ=底』に身を置き、深々と呼吸して、何かを素手で触れ、やがては、そこ=底から浮上する場だ」と書き、「わたしは(大江の)『定義集』を、そこから飛び立ち、そこに戻るわたしのベースとしよう」と書く。落合にとって大江の『定義集』はわたしにとって「シェルターのようなもの」と書いている。

礼拝で交読に用いている詩編46の詩人は「神はわたしたちの逃れの場」と詠っている。この詩人は〈神はわたしのシェルター(防空壕)〉と詠ったと解してよいとおもう。おそらくこの詩人にとってもそこは、「深々と呼吸して、何かを素手で触れ、そこ=底から浮上する場」であった、とおもう。