聖書とは何か

2014年12月07日 10:30

  

聖書とは何であるか。この問いに聖書自ら答えるときこうなろう。聖書とは神が為したことが書いてある書。ではどのように書かれているか。

いろいろと書かれているが基調はある。それは「出エジプト」。これは苦役に苦しんでいたヘブライのひとびとを神が救出したという出来事。神は苦しむ者を救出する、これが聖書の基調であると言ってよいと思う。

ところで、今日「苦しみ」は多様。人の苦しみの原因が過去にあるとき人には苦しみの因を除くことはできない。今日それを償う努力はするものの償い切れないことで苦しむことがある。こういう苦しみにある人に対し聖書はいかなることを語る書であるか。

今、理不尽の苦しみが生じている。この不正義をなくす不断の努力がなされなければならない。これをふまえたうえで問う、生じているその理不尽の苦しみの中に強いられている人に対し聖書はいかなることを語る書なのであるか。

つまり、苦しむ人にとって「聖書とは何であるか」。

 

聖書に「ヨブ記」という書がある。この書のえがくヨブは理不尽な苦境を強いられた中でその苦境の理由を問い続ける。しかしこの書はヨブが苦境の理由を問うことを止めることで終わる。読者は苦境の理由の明示に出会うことはない。

これと同様のことが福音書の描くナザレのイエスの生涯の終わりにおいてある。イエスの今生の終わりの言葉は「我が神、我が神なにゆえ我を見捨て給いき」であったが、この苦しみのイエスに対する神からの応答はなかった。福音書の証言はそうなっている。

聖書は苦しむ者の救出を主題にした書であるが、苦しむ者の問いに対し答を明示しているとは私には思えない。新約聖書はこの問いに対する明示的答えを開示している、これを時には実感しつつも、しかし明示的答えに手が届いたという実感は私にはない。聖書を長年読んで来たが、そうである。

ここで初めに掲げた問いに戻される。「聖書とは何であるか」。聖書はこの問いに自ら答えているという予感はある。それが分かるまで何度でも読み直すほかない。聖書とはそういう書、と言うほかない。生に終わりが来るまで「聖書とは何であるか」を問い続けることになろう。教会のみなさんと一緒に。

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