罪について
キリスト教会は聖書における重要なテーマである「罪」について知っておく必要があるかと思います。
聖書では「罪」は「罪過」として登場、過ぎ去った過去における罪として。人はこの罪過の「負い目」に苦しむことがあります。人は過去にもどれません。負い目を負ったとき、その罪責を認め謝罪するほかありません。この「負い目」の問題はこれ自体重要な事柄であり、機会を改めることにします。
聖書では「罪」は今日の問題として登場し「罪の力」として働いているとしています。この「罪の力」について私達は聖書に即して把握する必要があります。
聖書では「神ではないものが神として支配している事態」、ここに「罪の力」の働きをみています。聖書では「支配」という事態が生じていることに罪の力の働きをみます。一方に「支配する者」がおり他方に「支配される者」がいる、聖書の言う「罪の力」とはこのことを言っているようです。
聖書では「支配」なるものが生じている、ここに「罪の力」の働きをみるのですが、聖書ではこの「罪の力」の働きは「律法」を場にしてなされる、つまり、「罪の力」は「合法的」に「支配」を行う、とされています。「罪の力」は法に抵触し法に反するという仕方においてではなく、法に合った仕方で「支配」を行う、これが聖書の言う「罪の力」です。
法と秩序は尊重され、守られるべきです。が、これは「支配」が行われるためではありません。いやむしろ、「支配」が生じないようにするためです。法と秩序がその目的に反し、「支配」を行う手段になるとき、このとき実は法と秩序の裏側で「罪の力」が働いている、これが聖書の教えるところです。
この点で興味深いのは創世記の3章にある物語です。物語はこうです。地上で最も賢い智恵者が登場、人に「智恵」を伝授、その「智恵」は「神のようになれる」智恵。この「智恵」伝授者は暗々裏に「王ソロモン」を指しています。
この者が伝授する智恵は「神のようになる」智恵、すなわち人が神になって支配することができるようになる智恵。この物語の作者は言います、権力者の智恵は「支配」の智恵であり、「罪の力」に働きの場を提供する智恵でしかない。
この創世記物語は聖書の言う「罪」を把握するうえで最も重要と思います。