民主主義

2019年07月07日 10:30

わたくしが再読する書に『当事者主権』(岩波新書)があります。そこにこういう文章があります。

「(社会の)制度設計の基準を、平均にではなく『最後のひとり』に合わせる。そのためには多数決を絶対視しない。そういう合意形成を可能にするようなラデイカルな民主主義をめざしたい。」

わたくしはこの書から多くの示唆をあたえられていますが、いま引用した文章からもあたえられました。この文章に「民主主義」の語がありますが、この文章から「民主主義」について示唆をあたえられました。今号はそれを書いてみることにします。

この文章に「ラデイカルな民主主義」という表現が用いられていますが、この言い方で民主主義の根本(ラデイカル)についてこう述べられております。民主主義の根本は社会の制度設計の基準を「『最後のひとり』に合わせる」ことにある、と。

今この国の政治を動かしている者たちは多数の支持を得ているとして物事を強引に進め続けています。その最も深刻な事例が沖縄・辺野古に軍事基地を造る工事でありますが、これでは「全体主義」になっている、と言わざるをえません。

全体主義は少数者にとっては暴力となるものです。今日、深刻なのは、この少数者に対し暴力となる全体主義を、今日の民主主義が生じさせているということであります。なぜ、そうなっているかと言うと、それは、民主主義が「多数決の絶対化」にはまりこんでしまっているからであると指摘することができます。

今日の課題は、民主主義が少数者に対し暴力となっている全体主義を生じさせている、そこから民主主義が解放され自由にされることにあると言えますが、そのためには民主主義がはまりこんでいる「多数決の絶対化」から解放され自由にされる必要があります。そのためにはどうすればよいか。引用した『当事者主権』の文章で言えば「『最後の一人』に合わせる」ことによって、ということであると言えます。

新約聖書の福音書の伝えるイエスは「最後のひとり」に向き合う方であります。今日の問題を考えるとき、福音書のイエスはわたしたちに示唆をあたえる方であると言ってよいとおもいます。

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