「時間の創造」

2017年10月08日 15:18

1章3

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

 

原初史物語の作者は、神の「地」の創造の働きは「光」の創造から始まったとしている。物語作者はここで何を語ろうとしているのか、考えてみたい。それを考えるために、この後に続けてしるされているところをみてみる。

1章4~5

「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

 

ここには、神は光の創造の後、光と闇の間を分けたとある。そして、神は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだとある。そうすると、光の創造は「昼」ができることであり、「夜」ができることであるということになる。そうすると、神による「光」の創造は「昼と夜」を設定するためになされた、ということになる。この「昼と夜」の設定は「時間」の設定ということであると言ってよい。

創世記の原初史物語の作者は、「初めに神は天と地とを創造した」と語ったが、これは神が「天」という「場」および「地」という「場」を創造したということを語っているのであるが、この原初史物語作者はその後ただちに、神は「時間」を創造したということを語った、とおもわれる。

このような解釈はこれまでなされてこなかったが、このように解するほうが創世記の原初史物語の作者の状況に適合し、作者の言わんとしていることに即するのではないかとおもわれる。

ところで、神の創造した時間であるが、そこには昼の時間があり、夜の時間がある。昼の時間とは光のある時間であり、人は動くことができ、歩むことができる時間である。これに対し、夜の時間とは光がない時間であり、人は動くことができない、歩むことができない時間である。

この原初史物語の作者はバビロン捕囚の中にあった。この原初史物語の作者は「夜」の時間の中にあった。「時間」とは言い換えれば「歴史」。この原初史物語の作者の置かれている歴史は夜の暗闇の歴史であった。

ここで原初史物語の作者は語る、「神は光を見て、良しとされた。」この「良しとされた」は全的肯定を意味している。原初史物語の作者はバビロン捕囚の中にあり、この時ほど歴史を肯定するに困難な時はなかった、が、ここで、神は神の創造した歴史に対し全的に肯定した、と語った。

ここでわたくしの推測を言わせていただくと、1章3の「神は言われた。『光あれ』」および1章4の「神は光を見て、良しとされた」、これは神による全的肯定を語るものであるが、この全的肯定の語りは、原初史物語作者としては、「希望の預言」として語ったのではないか。

わたくしにそう推測させたのは、預言者イザヤの預言である。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」                    (9章1)

これは神のメシアの来臨のとき起こることを告げる預言、すなわち「希望の預言」である。

わたくしのおもうには、原初史物語作者の創世記1章3の「神は言われた。『光あれ』」および1章4の「神は光を見て、良しとされた」、これは預言者イザヤの「希望の預言」の線で理解するのがよいのではないか。

ここで、わたくしは、次のことに言及せざるを得ない。それは創世記の原初史物語作者の帰属するイスラエルの民が20世紀において強いられた歴史のことである。

イスラエルの民はバビロン捕囚において「夜」の時間の中にあったが、この民はそれより二千数百年後の20世紀において、バビロン捕囚において強いられた状況よりもさらに暗い夜の中に囚われることとなった。それはドイツ国に登場した独裁者アドルフ・ヒットラーによって極度の暗黒の「夜」を強いられた歴史のことである。

ここでわたくしは、20世紀の暗黒の夜のその体験者の一人がしるした書を紹介したい。その書は『夜と霧』、著者はヴィクトール・フランクル。

著者のフランクルは独裁者ヒットラーの暴力政策により強制収容所に囚われ、死の危機に幾度も遭遇するが生き延びる。フランクルはその時の体験を精神科医の立場から書いた。ここで、その一部を紹介する。

人間は圧倒的な運命にどうすることもできないと知るとどうなるか。自分で進んで何かをすることは一切しなくなる、何も考えなくなる。しだいに何に対しても感情の起伏が起こらなくなり、また人間としての節操というものがなくなる。原因は未来が見えない、未来が無いことにある。その結果、未来から今を考えることができない。

それゆえ、今強制されている苦しみの意味を見出すことができない。強制されている苦しみの中にいる自分、この自分に何の意味も見出せない。その結果、自分にこだわることをしなくなる。自己を放棄することになる。

『夜と霧』の著者はこのように書いているが、創世記の原初史物語の作者が直面していた状況もこのようであったのではないか、と、わたくしは推測する。

ここで、『夜と霧』の著者の書いているところをもう少し紹介する。それはフランクルが強制収容所の居住棟の班長から指名され話をするよう求められ、疲労困憊した自分を奮い立たせて語った、そのところである。

今強制されている苦しみ、この苦しみの中にいる自分、この自分に何の意味も見出せない、この意味のない自分を放棄すること、そのことになんらの躊躇もない、その通りだ。しかし、苦しんでいるわたしたち一人一人、このわたしたち一人一人を見ている人がいる。その人が誰であるか、それは生きている誰かであるかもしれないし、死んでいる誰かであるかもしれない。その誰かはこう言っている。あなたは、われわれを失望させないでほしい。あなたは誇りをもって苦しみ、誇りをもって死んで行ってほしい。

闇の夜の中で自分を失わずに生き抜く道はただひとつ、それはこの闇の夜の中で自分を見ている誰かがいる、このことに気付くことである。この闇の夜の中で自尊心を失わずに生き抜くことを期待している誰かがいる、このことに気付くことである。

『夜と霧』の著者フランクルは強制収容所の同僚たちにむかって呼びかけた、〈今のわたしたちは人間としての限界状況の中にある。だが、この限界状況にあってなお人間としての尊厳を失わないようにしようではないか〉、と。

わたくしはこのくだりを読んだとき、創世記の原初史物語の作者が天地創造物語の結びの創世記1章の終りのところで語った、「人間は神にかたどって創造された」という言葉、あれは人間の卓越性を言うためではなく、バビロン捕囚の闇の夜の中にあって、人間としての尊厳を失わないための励ましの文言であった、とおもった。

ここで、創世記の原初史物語のここと関係するとおもわれる新約聖書の証言を合わせ読んでおくことにする。それはヨハネ福音書の証言である。

 ヨハネ福音書は語る、

「初めに言があった」、その「言には命があった。」

「命は人を照らす光であった」、その「光は暗闇の中に輝いている。」

その「光はまことの光で、世に来てすべての人を照らす。」

この福音書のイエスは語る、

「わたしは世の光、わたしについてくる者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ。」

創世記の原初史物語は語る、

「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」

「神は光を見て、良しとされた。」

ヨハネ福音書はイエスをキリストと証言するに際し、この創世記冒頭にしるされた文言を、「希望の預言」として読み取り、そのうえで、この「希望の預言」がイエス・キリストにおいて成就したと証言した。わたくしはこのように推測する。


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