律 法

2016年04月03日 10:30

ナザレのイエスはなにゆえ消されたのか、それは律法をないがしろにしたとみなされたからである。律法は義が何であるかを決める。義が立てられて社会はうまくゆく。義を決める律法を廃棄せよと聞こえるイエスの言葉は反社会的とみなされた。

ところで、イエスを消すことで守った律法とは何であったか。それは「ローマの平和」であった。ローマ帝国に従うなら恩恵として与えられる平和、これが律法であった。イエスは「ローマの平和」という律法をないがしろにするとみなされた。

イエスは消されるべきだと言ったのは大祭司カヤパであったが、彼はこう言った、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。

当時の社会統治の頂点に立っていた大祭司は言う、「ローマの平和」を乱すイエスは消さなければならない、われわれの守るべき律法は「ローマの平和」である。

 

ところで、今日この国日本も律法は「ローマの平和」である。それは次の名で読み変えなければならないのだが、すなわち「原子力の平和」。この「原子力の平和」がこの国の守っている律法である。

この国は「原子力」によって平和に浴している。二つの面で、ひとつは米国の核兵器の傘で雨に濡れないでいれると言われている平和、いまひとつは原子力発電で快適な生活となっている平和。

この平和が平和ではないこと、危険であること、それが五年前の三月十一日の福島の原子力発電所の破壊によって示された。

福島の東京電力原子力発電所の所長は述べた、原子炉の第一号機から第四号機までが同時に爆発しておれば東京の全域が被曝し全滅した、同時でなかったのは運がよかっただけのこと。

この国日本の守っている律法の「原子力の平和」が平和でないこと、いやむしろケタハズレに危険なものであるということ、この律法は廃棄されるべきであるということ。

新約聖書の福音書の受難物語はイエスの教会が今日言い続けるべきことはこれであると言っているように思われる。