対話不在

2015年05月03日 10:30

 

「言は肉となった」―これは新約聖書ヨハネ福音書によるイエスが誰であるかについての説明、これによるとイエスは言が人間となった存在である。古代教会はイエスが誰であるかの説明として「真の人」という表現を用いたが、これによるとイエスが「真の人」であるということは「言が人間となった」存在である。

ここには人間とは何であるかについての示唆がある。これによると、人間とは言である、ということ。ここで「言」とは何であるかの問いに意思の伝達の通路であると答えておきたい。この通路で意味されていることは互いの意思の伝達の交流である。人間とは言である、とすれば、人間とは互いの意思の伝達の交流に生きる存在であると言ってよい。聖書の言う真の人間とはこの存在である。

今ここでこのような聖書の人間論を改めて確認するには意図動機がある。それは今日のこの国社会の状況が互いの意思の伝達の交流があまりにもおろそかにされていると言わざる得ないから。

「人の言うことを聞かない」「自分の言いたいことだけ言う」「自分の考えを述べて話を終わりにする」「意見の異なる者には野次り怒鳴り威嚇する」、こういったことがこの国社会に蔓延している。相手の意見を最後まで聞く、何が言いたいことであるのか相手の心を思慮する、聞いて直ぐに価値判断しまわずにいったん受け止めて考えてみる、こういったことがこの国社会になくなりつつある。この現象は言が無い状況と言ってよい。その意味は互いの意思の伝達の交流の言が無いということである。

この国政府の担当者の用いる言い方に「粛々と進める」がある。法治国家であるから決めたことは「粛々と進める」と言うのである。また「政府として説明責任を果たしてゆきたい」と言う。政府がすることについて説明責任を果たすことは当然であるが、この説明において「粛々と進める」が繰り返される。ここには次の価値観が決定的となっている。すなわち、多数者が決めたことは真理である。この価値観がこの国社会で王座を占め、少数者の意見をいつまでも聞いていることはないとする風潮を醸成している。    

これは政治の世界だけのことではない、

教会において生じている誤りである。議論ができない、対論ができない、多数を獲得し一方的に押し切る、この対話不在の誤謬が繰り返されている。

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