「善と悪を知る知識の木」

2019年01月11日 16:48

〈善と悪を知る知識の木〉

 

2章15~17にしるされているところは、原初史物語における最も重要なところに関わる。ここは丁寧に読むことが求められる。

 

章15

「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。」

 

原初史物語は語る、神ヤハウェが人間をエデンの園に置いたのは〈耕し、守る〉ためであった。

 

ここで〈耕し〉について留意しておきたい。この〈耕し〉について、月本昭男の『創世記Ⅰ』は適切な解釈を提示している。それを紹介する。

この「耕し」と訳すことがこれまで続いて来ているが、この語「アーバド」は「仕える」と訳すほうがよい。動詞「アーバド」は「仕える」である。これが目的語として「土地」を用いるのは原初史物語に集中しているが、そこでの含意は「仕える」である。また耕作行為を指す動詞はヘブライ語では別にある。これらを考慮して「仕える」が訳としてよい。「耕し」としないほうがよいだろう、人間と地の関係が上下となることを防ぐために。

 

(このことに関連して、月本昭男の述べているところをさらに紹介しておきたい。)

 

人間は「土」で造られたゆえ「土」に「仕える」と理解された。この人間理解は、メソポタミアの人間創造物語群と比較すると一層はっきりする。メソポタミアの人間創造物語群においても人間は粘土で造られるが、神々に仕えること、とくに神殿建設や運河竣工などといった夫役を神々に代わって負うこと、すなわち直接的行為をもって神々を喜ばすことに、人間創造の目的がおかれていた。それに対して、エデンの園の物語は直接神にではなく、大地に「仕え」、これを「守る」ことに人間本来の姿をみてとっている。

 

 

さて、2章15のしるすところによれば、人間は〈地に仕える〉存在であるが、この〈地に仕える〉ことは〈喜び〉であって〈苦役〉ではないということ、そのことは二章九がエデンの園には「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木」が生え出ていたとしるしている2章9の描写からして言い得る。しかし、これが逆転してしまう。すなわち、〈地に仕える〉ことが〈喜び〉ではなく〈苦役〉になってしまうという逆転が起こる。それがしるされているところを示すと、

 

章17~18

「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。」

 

これから後に語られる3章にしるされている物語によると、エデンの園において〈地に仕える〉ことは〈喜び〉であって〈苦役〉ではなかったが、それが逆転して〈喜び〉ではなく〈苦役〉になってしまった、それには原因があるという、そのことが語られる。ここが原初史物語における最も重要なところとおもわれる。

 

そこで、その悪しき逆転を引き起こすに至る物語の推移を丁寧にみてゆきたい。ことにその悪しき逆転を引き起こすに至らせるところの〈善と悪を知る知識の木〉、これについて丁寧にみてゆくことにしたい。

 

章16~17

「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」

 

 

ここに登場している〈善と悪を知る知識の木〉について、これを理解する最適の文献がある。それは、柏井宣夫の『旧約聖書における創造と救い』である。それを紹介する。

 

まずヤーウェは、エデンの園のすべての木からその果実を食べることを許 す。ただし、一本の木だけ禁止される。人間には制限、限界が設定される。それは見方を変えれば、「人間を自由の領域に置く」ことであり、「人間実存の可能性の制限ではなく、その拡大である」と言うこともできよう。

 

ところで「善と悪を知る木」とは何であろうか。それが禁止されるとは何を意味するのであろうか。常識的に考えれば、善悪の知識とは道徳的知識である。しかし、道徳的知識が禁止されるのは理解しにくい。そこで他の意味が考え出された。たとえば、善から悪までの意で、全知を禁止している。人間にとって有益なもの有害なものの判断、性的知識、魔術的知識、自律、知的欲求・好奇心など。いずれも当たらずと言えども遠からず、不十分な点が残る。次の箇所が正しい解釈のための手がかりを提供するように思われる。

 

まずダビデ王について、「王、わが主は神の使いのように善と悪を聞きわけられるからです」と称賛されている(サムエル記下14章17)。その続きには「わが君には神の使いの知恵のような知恵があって、地上のすべてのことを知っておられます」(14章20)という称賛の言葉も見られる。

 

次にソロモンの場合、「そこで聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民を裁かせ、わたしに善と悪を識別させてください」という祈りがあり(列王記上3章9)、その続きには「神の知恵が彼のうちにあって、裁判するのを見たからである」という称賛の言葉がある(3章28)。これらは王の知恵を称賛する表現である。神の使いの知恵、神の知恵という表現が見られる。これらはヤーウェ資料〔神の名を「ヤーウェ」としている資料〕と同時代のことである。しかし、この賛辞は人間に対しては過大であり、行き過ぎではなかったか。宮廷の知恵に対して信仰的に問題があったのではないか。

 

ヤーウェ資料において、善と悪を知る木が禁止される背景には、宮廷を生活の座とする知恵文学に対する批判的な意識が存在したとは考えられないであろうか。もしそうであるとすると、農民の生活を背景とするヤーウェ資料が、宮廷を生活の座とする知恵文学に対して警戒し、人間の限界を逸脱する危険を見てとったと考えられる。もしそうであるとすると、3章において「善と悪を知って神のようになる」ことが罪への誘惑の内容となっていることも理解しやすくなるであろう。

 

わたくしはこの柏井宣夫の文章を読んで、はじめて、ようやくにして創世記2章と3章を読解することができ、ここが発しているメッセージをとらえることができた。今から四十年以上前のことである。

 

 

ここで、柏井宣夫『旧約聖書における創造と救い』が「善と悪を知る木」についての正しい解釈の手がかりを提供しているものとして挙げている聖書箇所について、いまいちど読んでおきたい。

 

サムエル記下14章17にこうある、「主君である王様は、神の御使いのように善と悪を聞き分けられます。」続けて14章20にこうある、「王様は神の御使いの知恵のような知恵をお持ちで、地上に起こることをすべてご存じです。」ここにはダビデ王に対する賞賛の言葉がしるされている。ダビデ王には善と悪を聞き分け得る能力がある、ダビデ王には善と悪を判断し得る神の能力がある、と、ダビデ王に対する最高の賛辞がしるされている。

 

列王記上3章9にこうある、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」これはソロモン王が王に即位するとき祈り願った言葉である。この後の3章28にこうある、「イスラエルの人々は皆、王(ソロモン)を畏れ敬うようになった。神の知恵が王(ソロモン)のうちにあって、正しい裁きを行うのを見たからである。」ここにはソロモン王に対する最高の賛辞がしるされている。ダビデ王に対する最高の賛辞「神の能力を持つ」と同じ最高の賛辞がしるされている。

 

旧約聖書において〈善と悪を知る知識〉が出てくるのは創世記のほかにはこの2箇所である。この2箇所に出ている〈善と悪を知る知識〉はいずれも〈王〉を賞賛する言葉である。そうすると、この〈善と悪を知る知識〉この言葉は、〈王〉を賞賛するときに用いる言葉であった、そしてこの賞賛の言葉は、ただ二人の王に対して、すなわちダビデ王とソロモン王にだけ用いられていたものであった、と推測される。

 

そうだとすれば、ダビデ王とソロモン王は〈神〉の位置にある。この二人の王は〈神格化〉されている。この神格化された王の下では、人々は絶対服従を強いられ、絶対服従せざるを得ないでいた、と推測される。

 

そうすると、創世記2章17の「ただし、善と悪を知る知識の木の実からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」、この言葉の意味するところはこうなろう。すなわち、王を賞賛することはしてはならない、ことにダビデ王とソロモン王については賞賛してはいけない、王を神格化してはいけない、それをしたらこの社会に死滅的状況が生じる。

 

この問題は3章の物語において展開される。そこには〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べると〈神のようになれる〉とある。この背後の歴史状況として推測されることは、ダビデ・ソロモン王朝体制が自己を〈神〉としている状況、王朝が権力を自己利益追求のために使い、この王朝体制の下層に置かれている者たちには横暴な権力行使となっている状況である。

 

わたくしが柏井宣夫『旧約聖書における創造と救い』から教示されたことを端的に言うとこうなる。〈善と悪を知る知識の木の実を食べる〉とは〈ダビデ・ソロモン王政の体制に乗る〉ことであり、この体制に乗ってゆくと、そこには悲惨極まりない死滅的状況が生じる。これが原初史物語作者の語っていることである、と、わたくしにはおもわれる。

 

わたくしは柏井宣夫『旧約聖書における創造と救い』を読んで直感したのは、創世記の原初史物語はダビデ・ソロモン王政に対する〈農の視点〉からの批判であり、そう読むことができるし、そう読むのがよい、であった。

ここで注を入れておきたい。

 

古代オリエントの王朝国家の神概念は〈強さ〉によって支配し、〈強さ〉において世の安定安全を保障する、この保障を得たいのであればこの〈強さ〉に服従することが絶対の条件であるとする神の概念である。これに対しモーセから始まったヘブライ人宗教の神は〈弱くされ苦しみにあえぐ者〉をそこから解放する神、この神は奴隷的屈従の服従を求めることはしない、人自らの主体的な喜びの讃美であるならば受ける神である。ダビデ・ソロモン王朝国家はこれとは全く逆の神を神とするようになっていった。すなわち、古代オリエントの王朝国家の神を神とするようになっていった。原初史物語に登場している蛇が〈善と悪を知る知識の木の実を食べると神のようになれる〉と言ったときの〈神〉は古代オリエントの王朝国家の神のことであった。