受難節に

2014年03月02日 10:30

3月は教会の暦では受難節を迎える。新約聖書の福音書の受難物語にはナザレのイエスを排除しようとする者たちが次から次へと登場する。
  それを挙げれば、イエスを世の勢力に引き渡す側近の弟子、イエス排除の謀議を練り群衆に「十字架につけろ」と叫び立てさせた体制幹部の祭司長たち、この扇動に乗せられた群衆、この群衆に恐れをなしイエスを十字架刑に引き渡したローマ帝国ユダヤ総督のピラト、囚人とされたイエスに紫の衣を着せ荊の冠をかぶせ葦の棒で頭をたたき唾をかけたローマ軍兵士、これに加えなければならないのはイエスを捨てて逃亡した側近の弟子たち、この人のことは一切知らないと言い切ったペトロ。 
 この者たちに共通するものがある。それは権力を恐れているということである。イエス排除に関わり合うこととなった者たちはみなそうであり、例外者はいない。ローマの権力をもって立っているピラトでさえ権力を恐れている、群衆という権力を恐れている。
 この権力を恐れるには二極が生じる。一方では権力にすりよる、他方で自分が権力になり恐れる権力がないようにする。権威主義という現象は権力への恐れから生じる。権力を恐れるということがあるところ、権力を恐れたがゆえにイエス排除に荷担する者たちとなった福音書受難物語に登場する者たちと相似の者たちの再生産が続くとみなければならない。 
 福音書に登場する者たちは死去し存在していないのであるが、権威を恐れてイエスを排除するという問題はなくなったかと言うと、そうではない。人間は死ぬが問題は死なない。権威を恐れてイエスを排除した問題はなくならない。福音書に登場する権威を恐れてイエスを排除するに至った側近の弟子・祭司長・群衆・ピラト・兵士・ペトロ。今日これと近似の人間群像が続々と立ち現われてくる。  
 この問題は歴史を貫通する問題である。教会はこの根本問題に関わる。ただ教会がこの問題に関わるとき、イエスの側近の弟子ことにペトロが恐れるべきでなかった権威を恐れイエス排除に至ったということに留意が必要である。教会はこれと近似のことをなすおそれが十分にある。3月、受難節を迎え、福音書受難物語をあらためて読み直してみようと思う。

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