偽 神
教会は「イエスは人間を罪から贖うキリストである」と告白。この教会の告白は「贖う」という奴隷が解放され自由とされるときに用いる用語で罪からの解放自由がイエスによってなされたと説明。では「罪からの解放自由」の「罪」とはいかなる罪か。この最も肝心な点に関しこれまでの教会の説明は聖書に即していると言い得るか、これが問題である。
聖書の言う人の罪は「偽神崇拝」。神
ならぬ者・物が人を支配している事態。この地上に苦しみがなくならない苦を生産し続けている因をたどればそこに偽神が立っている。この偽神の支配を容認していること、この偽神の支配に無関心であること、この偽神の支配に加担していること、この偽神に自分がなっていること、これが聖書の言う人の罪である。
人がこの罪の支配からの脱出を得るためには偽神を偽神としてみきわめることが必要。みきわめるためには偽神とはどのようなものであるかの認識が必要。しかし偽神は偽装がうまく変身に長けている。認識は簡単ではない。
新約聖書の福音書には、ガリラヤでの活動をやめエルサレムに行くと言われ、この決断を敢行、終には十字架死の道を完遂したイエスが描かれている。イエスがガリラヤにてなすべきことは多くあった。癒しがなお期待されており、共なる食事の交わりもなお期待されていた。それらをやめてまでなすべきことがあると言われたイエスを理解することのできた者は皆無であった。
イエスがエルサレムに入って起こったことは権力がイエスを抹消抹殺したということ。後日になってからのことであるが、最初期キリスト教の人々に分かったことは、権力が偽神の正体であるということ、権力の悪に対し反権力で立ち向かうのであればこの反権力も権力にほかならず、反権力が勝利し権力となったとき偽神となるということ、イエスは非権力であることによって偽神とは権力であるということをあばいたということ、イエスの十字架死はこの「あばき」のためであったこと。
後日成立した「贖罪論」はこのことを述べるもの。贖罪論は偽神支配をあばき、偽神支配とたたかったイエスについてゆくことへのうながしにほかならなかった。
私はこう理解している。