個人主義

2014年02月02日 10:30
聖書の世界とはいかなる世界か。特徴の一つは固有名の世界にあると言えそうだ。聖書の始まりにそれがあらわれている。神が一人の者に苦役にうめく者たちをそこから脱出せしめよと命じたときその神は「ヤハウエ」、命令を受けた者は「モーセ」。登場した神も人間も固有名の存在。ただ単に神なのではなく、ただ単に人間なのではない。言い換えると、「神」なる概念でくくっていない、また「人間」なる概念でくくっていない。多くの神々がいるが「ヤハウエ」はたった独りしかいない。人間は多くいるが「モーセ」はたった独りしかいない。
   この特徴は新約聖書において徹底している。新約聖書証言は多様となっているが神の意思をあらわしたのは「ナザレのイエス」この固有名すなわちたった独りの存在という点で一致。新約聖書証言は神を「神」なる概念でくくることはしない。また人間を「人間」なる概念でくくることはしない。新約聖書の世界の特徴も旧約聖書と同様、固有名のたった独りの存在というところにあると言ってよい。
   固有名を特徴とする聖書の世界を知りここに真理があるとする者に違和感をかんじさせる最たるものは「国家主義」である。国家主義者が開口一番口にするのは「日本人」という言葉である。「日本人」という概念でくくるのである。
   国家主義者にはまず国家があって次に個人がある。これに対して私の場合はまず固有名の個人があって国家はその次である。これは個人主義である。ただしこの個人主義は固有名の個人を大切にするという意味であって、私的自由だけを求める「私人主義」ではない。私は「日本人」という概念でくくる国家主義に違和感をかんじる。私は「日本人」の概念でくくられたくない。
   国家主義があらわれ、国家主義にみなが傾斜していった「明治」という時代の文学者に夏目漱石がいる。漱石は講演の依頼を受け、その一つに「私の個人主義」がある。講演は国家を優先させる主義への傾斜に対する警鐘を鳴らすものであった。この講演は最晩年のもので、漱石の遺言であったと言ってよい。
   今やあの敗戦で終わりを告げたはずの国家主義が台頭してきた。わたしたちは、漱石にならって、「私の個人主義」をそれぞれ語らねばならないのではないか。  

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