人間として

2016年11月06日 10:30

 このたび沖縄における米軍基地建設を阻止しようとしている沖縄の人々に対し大阪府警の警官が「土人」の言葉を投げつけた。「土人」は侮辱する言葉として最大級のものである。このたびのことは問題を根本から考えておく必要がある。そこで次の事例を参照にする。

 1961年、ナチスの戦争犯罪者アドルフ・アイヒマンの裁判が開始された。アイヒマンはナチス・ヒットラーのユダヤ人大量虐殺を実行する指揮官であった。

アイヒマンは裁判でこう言ったという。自分は組織の一員として組織の決定に対し忠実であっただけで、有罪にするのであれば組織を有罪とすべきだ。このアイヒマンの主張に彼がユダヤ人を平気で大量虐殺し得た因が存している。 

組織の一員として組織に忠実であることだけを考えている者は組織がイヒマンは裁判でこう言ったという。自分は組織の一員として組織の決定に対し忠実であっただけで、有罪にするのであれば組織を有罪とすべきだ。このアイヒマンの主張に彼がユダヤ人を平気で大量虐殺し得た因が存している。 

組織の一員として組織に忠実であることだけを考えている者は組織が人を殺すことを命じるとき、これを実行するということが生じる。このとき、これを実行することが「人間として為してよいことか」というところから物事を判断する、それがこの者には無く、それがこの者に欠落する。

 この者には、それゆえ、人を殺すことは人間として為してはいけない、これを為したら人間であることを失うという罪の意識は起こりようがない。罪の意識無く平気で人を殺すことができるようになる。アイヒマンが平気でユダヤ人を大量虐殺し得たのはこのゆえである。

 このたびの「土人」発言にはアイヒマンの問題性と通底するところがある。組織の一員として組織に忠実であることだけを考えている者には「人間としてどうか」の問いが自分の中で起こらないということが生じる。このたびの「土人」発言はこの問題としてもとらえるべきとおもう。 

この問題はしかし国家組織の中央にいる者たちに向けなければならない。「人間としてどうか」の問いはかれらにこそ向けられねばならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人を殺すことを命じるとき、これを実

行するということが生じる。このとき、これを実行することが「人間として為してよいことか」というところから物事を判断する、それがこの者には無く、それがこの者に欠落する。

この者には、それゆえ、人を殺すことは人間として為してはいけない、これを為したら人間であることを失うという罪の意識は起こりようがない。罪の意識無く平気で人を殺すことができるようになる。アイヒマンが平気でユダヤ人を大量虐殺し得たのはこのゆえである。

このたびの「土人」発言にはアイヒマンの問題性と通底するところがある。組織の一員として組織に忠実であることだけを考えている者には「人間としてどうか」の問いが自分の中で起こらないということが生じる。このたびの「土人」発言はこの問題としてもとらえるべきとおもう。 

この問題はしかし国家組織の中央にいる者たちに向けなければならない。「人間としてどうか」の問いはかれらにこそ向けられねばならない。

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