マルコ福音書より(27)12章28~34  〈律法学者〉 

2016年05月28日 16:34


  物語は律法学者がイエスに質問するところから始まる。

 

律法学者はイエスに質問する、「あらゆる掟のうちで、どれが大事でしょうか。」

 

イエスは答える、

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

 

ここで律法学者はイエスが律法についての正確な知識を持っているか試した。律法学者はイエスが持っていることを知ったので「おっしゃるとおりです」と言った。イエスはこの律法学者に対し「あなたは神の国から遠くない」と言った。

わたくしは、ここで、イエスの律法学者に対する「あなたは神の国から遠くない」は律法学者のありようを良いとしているのではなく、むしろ彼のありように対する批判であった、と読む。

 

ここで律法学者はイエスが律法についての正確な知識を持っているか試した。律法学者はイエスが持っていることを知ると、そこで終わりにした。ここで律法学者はイエスが律法についての正確な知識を持っているか試すだけであった。律法学者には律法についてさらに問いかけ、律法に関しイエスと論議する、そのつもりはなかった。イエスの律法学者に対する「あなたは神の国から遠くない」は、この律法学者のありように対する批判であったのではないか。

 

神の律法に関して正確な知識を持っていることは重要なことであるが、神の律法に関しては正確な知識を持っていれば済むということにはならない。神の律法は生きたものであって、今ここではいかなることを指し示すのであるか、それが問題となる。

 

神の律法が「神への愛」と「隣人への愛」を教えることにあるというこの正確な知識を持つことは重要なことであるが、今ここではいかなることを指し示すのであるか、それが問題となる。

 

律法学者は神の律法が生きたものであって、今ここではいかなることを指し示すのであるかを語る立場にある。ここに登場した律法学者はイエスが神の律法について正確な知識を持っていることを知るとそこで終わりにする、神の律法は今ここではいかなることを指し示すのであるか、イエスと論議することをしない。これでは律法の教師として務めをはたしていない。

 

ここで、わたくしは、この問題を考えさせてくれるものとして、イエスの譬え話を挙げる。それは「良きサマリア人の譬え話」と呼ばれているルカ福音書10章に記されているイエスの語った譬え話である。

 

 ここでは要点のみを述べることになるが。

律法学者はイエスに問うた、「わたしの隣人とは誰であるか」。イエスはこの律法学者の問いに譬え話をもって答えた。

 

ある人が強盗に襲われ重傷を負った。その強盗に襲われた人のいる所を通りかかった者がいたが、その人を見るには見たがその脇を通り過ぎていった。そこを通りかかった者にサマリア人がいた。サマリア人は強盗に襲われ重傷を負ったその人を宿屋に連れて行き治療方を依頼した。

 

ここで留意点は次のことにある。当時、ユダヤ人はサマリア人を憎悪の対象としていた。ユダヤ人はサマリア人を「悪霊に憑依された者」と呼んでいた。これは人を蔑むこれ以上にないどぎついものであった。ユダヤ人はサマリア人を人間としてみていなかった。そのサマリア人が、すなわちユダヤ人から憎悪と蔑視の対象とされていたサマリア人がユダヤ人を助けた。ここが留意されなければならないところである。

 

イエスはこの譬え話によって何を言おうとされたのであろうか。

神の律法は「隣人を愛すること」を教えており、そう認識することが神の律法についての正確な理解であるが、ここで直ちに問題となるのは、この神の律法の「隣人を愛すること」は、今ここでは何を指し示しているのであるかであるが、ここでイエスが律法学者にこの譬え話によって言おうとされたことは、こういうことになるのではないかと思う。

 

神の律法の「隣人を愛すること」は、「今ここでは」、サマリア人がユダヤ人を助けたようにユダヤ人がサマリア人を助けることである。

 

律法学者は神の律法が「隣人を愛すること」を教えるものであることは承知していたが、彼は隣人の中にサマリア人を入れていなかった、いや、入れていなかっただけでなく、憎悪と蔑視の対象としていた。

 

イエスはこの律法学者に対し、神の律法の教える「隣人を愛すること」は、今ここでは、あなたが憎悪と蔑視の対象としている者を愛するということである、と語った。

ここで、きょうも旧約聖書から学んでおきたい。

 

預言者エレミヤの場合、今ここでの「隣人を愛すること」、これがいかなることで

あったかについて、みておきたい。

 

古代オリエントの覇者バビロニヤ帝国はユダ王国を呑み込む勢いにあった。ユダ王国

の政策は武力抵抗であった。エレミヤはこの国家政策に反対する。ユダ王国は武力抵抗の政策を変えない。

 

この状況の中で預言者エレミヤが神ヤハウエから命じられたことは「さばきを語る」ことであった。その具体例を挙げと、婚宴に出席し祝いの言葉を語るのを禁じられた、また、弔いの儀に参列して慰めの言葉を語るのを禁じられた。エレミヤが神ヤハウエから命じられたことは「さばきを語る」、それだけをせよ、それ以外のことはしてはならないというものであった。

 

エレミヤにとって神を愛するということは神の命ずるところを行うことであるわけだが、この神の命ずるところを行うということは、現実的には人間的非情を行うということであった。それゆえエレミヤにとって「神への愛」に生きることは「隣人への愛」を捨てることを意味した。

 

エレミヤは苦悶した。彼は神が「語れ」とする言葉が「さばきの言葉」であったゆえ、そして、それだけを語ることに限定されたゆえ、エレミヤは神に向かって、この預言者の務めから降ろしてほしいと懇願した。エレミヤはしだいに懇願することから抗議することへと至る。

 

しかし、エレミヤの告白によれば、自分の魂の内奥に燃えるものがあり、それを消そうにも消すことができなかった、その燃えるものは神の言葉であった。その燃える神の言葉はエレミヤに歴史の舞台から降りることを認めず許さなかった。エレミヤはこの燃える神の言葉に抗し切れず、この務めにあり続けた。

 

エレミヤの苦悶は「神への愛」と「隣人への愛」を両立させようとすることから生じている。そのいずれかだけでよいのであれば、エレミヤは苦悶することはなかった。

 

歴史を後から振り返ったとき、エレミヤが「神への愛」を貫いて神のさばきの言葉を語る、そのことは「隣人への愛」を捨てることと見えたのであるが、しかしそうではなく、エレミヤは「隣人への愛」に生きたと言い得ることになる。

 

ここで、きょうの福音書物語にもどる。

 

ここに登場した律法学者は、自分たちの先達の預言者エレミヤの苦悶を知っている者のようには見えない。彼は律法学者として預言者エレミヤの書を読んでおり、研究もしていた。したがって、彼は預言者エレミヤの苦悶を知っていなければならない。しかし、ここに登場した律法学者はそうであるとは見えない。この律法学者は預言者エレミヤの書を読んでも、この律法学者の中にエレミヤの苦悶のことは入らなかったのであろう。ここには聖書を読むということについて考えさせられるものがある。

ここに登場した律法学者は、神の律法についての正しい理解をイエスが持っていることを試し、それを確認したところでイエスとの論議を終えている。この律法学者は神の律法が「神への愛」と「隣人への愛」を教えるものであることを確認しただけで、ここで直ちに問題となること、すなわちその命題が「今ここでは」何を指し示すのであるかについて論議、それをしようとしない。

 

この律法学者のありようを伝えるこの福音書の著者は、この物語を通してこれを読む読者に問題を提起しているように思われる。わたしたちはこの促しに刺激され半歩前に進みたいと思う。聖書を読んで正確な認識のところで終わるということではなく、それが「今ここでは」何を指し示すのかを考えたい。わたしたちが「あなたは神の国から遠くない」程度の者で終わることのないように、もう少し前に進みたいと思う。