マルコ福音書より(25)12章1~12 〈捨てられた石〉
イエスは彼らに話し始められた。
イエスが話しかけられた「彼ら」とは、きょうの物語のすぐ前に置かれている物語に登場している人々、すなわち祭司長、律法学者、長老たちのことである。彼らは当時のユダヤ社会の指導的な立場にあった人たちであった。
ここでイエスは譬え話をもってその「彼ら」を批判する。
あなたがたはぶどう園の所有者から管理を委ねられている者たちである。しかし、あなたがたはその所有権を奪い取る略奪行為をおこなっている。あなたがたはぶどう園の所有者から管理者であることを罷免される。あなたがたはそういう者たちであると言わざるを得ない
「彼ら」は自分たちをこう批判するイエスを捕縛、この社会から切り捨てようとした。
イエスはこの「彼ら」に旧約聖書にある言葉を差し向けた。
「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった。
これは、主がなさったことで、
わたしたちの目には不思議に見える。』」
ここでイエスが言っておられることはこういうことであろう。
あなたがたはわたしを切り捨てようとしている。それは成功するだろう。しかし、神は後で、あなたがたしたことをひっくり返してしまうにちがいない。
ここでイエスは自分を「捨てられた石」にたとえた。確かにイエスに「捨てられた石」という比喩は当てはまる。この後イエスは捨てられてゆく。
きょうはこの「捨てられた」ということについて、ここに今日的な問題がある、この点について考えてみたい。
この国日本は「明治」と呼ばれる時代、国家の政策に一つの傾向が見られる。それは一言で言うと「人間を捨て石のように使う」という傾向である。
わたくしは北海道の教会に赴任し働いたことがある。このとき、わたくしは北海道の歴史を知ることになる。
明治政府は本州、四国、九州などにいた人たちを北海道に移住させる政策をとった。これはロシアの南下を恐れ、それに対する対処策であった。この政策は民を植える政策、植民政策であった。
わたくしは「開拓農家」と呼ばれていた家にうかがい話を聞くことができた。分かったことは「開拓農家」を襲った苦難は尋常ならざるものであったということである。
北海道開拓という名でおこなわれた植民政策は人間を捨て石にする「棄民政策」であったことを知った。
この北海道開拓の名でおこなわれた植民政策であるが、これは先住民族のアイヌの方々に対する「侵略」であったのである。
明治から始まる近代日本は、アイヌ民族の先住地への侵略に始まり、朝鮮半島、中国大陸、台湾において植民政策を押し進め、侵略を繰り返した。この侵略の植民政策は人間を捨て石にする棄民政策であった。
日本政府が「満州」と命名した地に農民として移住させられた方々は「棄民」とされた方々であった。
今次のアジア・太平洋戦争の末期、「沖縄」は地上戦の場となり、筆舌に尽くせぬ惨事を強いられた。沖縄に強いられた惨事は悲惨極まる。沖縄は「捨て石」とされた。
沖縄を捨て石にするこの国の国家政策は今なお続いている。
明治から今日までこの国日本は「侵略」そして「棄民」を繰り返しおこなってきた。1945年8月、日本の敗戦まで80年間続いた。この「棄民」政策は、敗戦をもって終わったのではなく、敗戦後、日本社会において続いている。
わたくしの働いていた北海道の或る伝道所は豪雪地帯であった。家庭を尋ねると、高齢の方々が残され淋しく暮らしている。これは戦後の日本において生じた「棄民」ではないか、と思った。
今福島で起こっていることは、この「棄民」の流れの中で生じたことである。
過疎地に原子力発電所を建てる。これはそこで事故が生じれば、そこの住民に犠牲になってもらうことを前提にした政策である。これは過疎地の人間を捨て石にする政策である。
ここで聖書にもどる。
キリスト教の源流はヘブライ人宗教にある。このヘブライ人宗教はエジプトで過酷な重労働を強いられ、エジプト国家のために捨て石にされていた者たちがそこを脱したところから始まった宗教である。
この脱出のために召されたのはモーセであるが、彼は生まれてすぐ捨て子にされた。その事情が出エジプト記1一章と2章に記されている。
モーセの両親はエジプト国家の命令「ヘブライ人の男の子は全て殺せ」に従わなかった。だが、モーセの命を断たないでゆく方法は一つしかない、それは生後三ヶ月のモーセを籠に入れ、ナイル川の河畔の茂みに隠す方法であった。この方法は当時の社会の慣習として捨て子にするときの方法であった、と、或る書物には記されていた。おそらくそういうことであったろう。
モーセは捨て子にされた。捨て子にされた者が捨て子にされたヘブライ人たちを救う物語、それが「出エジプト記」という書。キリスト教はこの物語を源流としている。これを忘れてはいけない。
きょうの福音書物語によれば、
イスラエルの指導者たちはイエスを捨て石にした。彼らはそうすることで、社会の不穏分子を始末、ローマ帝国への忠節を示しつつ自分たちの安全を図ろうとした。これは捨て石をつくることによって自分の身の安全を図る政策である。モーセを継承していなければならないイスラエルの指導者たちが、捨て子を救うのではなくて、捨て子をつくることをしてしまう。
近代日本が明治から今日に至るまで続けている国家政策はこれである。
さて、きょうの福音書物語は以上述べたところで終わっていない。
イエスは捨て石にされた。しかし、それで終わったわけではない。イエスは「隅の親石」とされた。ここにはそう記されている。
神は捨てられたものを用いる。これがきょうの福音書物語の記すところである。これは聖書を貫くテーマである。
旧約聖書によれば、モーセは捨て子とされたが、神はこの捨て子とされたモーセを召して、捨て子とされたヘブライの人たちを救出する。旧約聖書は捨てられた者が捨てられた者たちを救う物語である。
新約聖書によれば、マタイ福音書の記すところであるが、
イエスは母マリアと共に誕生以前に捨てられる運命にあったが、天使の介入で捨てられることなかった。その後に記されている福音書証言は、捨てられる運命にあったイエスが捨てられたと同然の人々に関わり、神は共に生きるインマヌエルの神であるということ、これを語る。新約聖書も捨てられた者が捨てられた者たちを救う物語である。
イエスは最期に「我が神、我が神、何故我を見捨て給いき」と絶叫、捨てられた者として死んだ。が、
神はこのイエスを捨ておくことをせず、イエスを甦らせ、「隅の親石」とした。すなわち「礎」とした。これはいずれの福音書も証言するところである。
きょうの福音書物語の著者は、旧約聖書の詩編詩人の言葉をもって、
「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と語った。
わたしたちも捨てられた石にされる経験をすることがあるのではないか。そう思わざるをえないときがあるのではないか。そのようなとき想起すべきは、捨てられた者が捨てられた者たちに関わっていくと証言する聖書物語、これではないか。
きょうの福音書物語はこのように語っている、と、わたくしには思われる。