マルコ福音書より(24)11章1~11  〈驢馬に乗って〉

2015年11月13日 21:17

 きょうの物語は、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城する物語。

イエスは、このとき戦争に勝利した将軍が凱旋行進して入城する、その将軍に自分を模している。

 

このイエスの振る舞いは、旧約聖書ゼカリア書に記されている預言の実演と言ってもよいものであった。そこにはこう記されている、

 

「娘シオンよ、大いに踊れ。

 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。

  見よ、あなたの王が来る。

  かれは神に従い、勝利を与えられた者

  高ぶることなく、ろばに乗って来る。」

 

預言者ゼカリアによると、ろばに乗って凱旋行進する王が来る、という。

 

このようなことは、この地上の事例であったことはない。戦いに勝利し、凱旋行進する王は軍馬に騎乗する、それがこの地上の事例。しかし、この預言者は言う、ろばに乗って凱旋行進する王が到来する、そのときこの地上の事例にないことが起こる。

 

この預言者はさらにこう語る、

 

「わたしはエフライムから戦車を絶つ。

  エフライムから軍馬を絶つ。

  戦いの弓は絶たれ、

  諸国の民に平和が告げられる。

  かれの支配は海から海へ

  大河から地の果てにまで及ぶ。」

 

預言者ゼカリアによれば、

地上の王は「軍馬」に象徴される「権力」によって支配するが、それはしかし王を僭称する偽りの王のすることでしかない。真の王はそうではなく、「ろば」に象徴される「非権力」によって、支配ではなく仕える。

 

イエスがエルサレム入城をろばに乗る行進をもって示したことは、預言者が語った究極的平和の成就ということ、であった。

 

イエスの「ろばに乗る行進」は、当局者たちをかなり強く刺激したのではないか。当局者たちはイエスを社会秩序に対する挑戦者とみなしたのではないか。

 

真なるものが現れるとき、偽りのものは居丈高になってそれを抑圧するということが起こるのであるが、このときそれが起った。イエスに対する当局による取り締まりが始まる。

 

 このことに関連して、この国日本におけるプロテスタント・キリスト教の始まりを紹介しておきたい。それは「明治」と呼ばれる時代の初めの時のことである。

 

日本最初のプロテスタント教会が成立した。そのときの名は「横浜公会」。「教会」といわずに「公会」という名にしたのは教派を超えたものしたいとの願いからであったようだ。この「公会」の名はすぐに消えてしまうのだが。

 

この日本最初のプロテスタント教会は規則を決めた。その規則は、結果的には公にはならなかったのであるが、記憶されてしかるべきである。

 

その教会規則の第一条には次のことが記されている。

「皇祖土神の廟前に拝跪すべからざること」

 

つまり、天皇・祖先などを神として拝むことをしない。これは教会に参加する時の条件であった。この教会規則は真の王が存在していることを前提にしている。

その教会規則の第二条にはこうある。

「王命といえども道のためには屈従すべからざること」

 

つまり、王の命令であっても、真の王の道に反するのであれば従わない。これは教会に参加する者に、そうする用意があるかを問うものであった。

 

この教会規則が定められようとしていたときは「明治五年」。このときはまだ「キリシタン禁令」が立てられていた。それが撤去されたのは「明治六年」。この教会規則はキリスト教が国家権力によって禁止されていたときに成立したことになる。このことは記憶されてよいことである。

 

日本のプロテスタント・キリスト教会のその後の歩みは、遺憾なことに、この道から外れてしまった、個々の例外は別として。日本におけるキリスト教会は「天皇教」という日本の国家宗教に屈従してしまった。

 

わたしたちの教会が属する日本キリスト教団はこのことの反省に立つこと無しに教会の新たな出発はあり得ない。一九六七年「戦争責任告白」はこの教団の新たな出発を志すものであった。

 

きょうの物語はこの問題と課題を担って進もうとしているわたしたちに示唆を与えるのであるが、次の点でも示唆を与える。

 

イエスは「ろば」に乗った。イエスはこれによってメッセージを発した。それは、平和をもたらす真の王は「ろば」という「平和的存在」と「平和的方法」においてであるということ、平和をもたらすには平和的存在と平和的方法でなされなければならないということ、つまり、目的と方法の一致ということ。これが「ろばに乗るイエス」から発せられているメッセージではないかと思う。

 

きょうは、これに関連して、紹介したいことがある。

 

半世紀前のことであるが、当時北九州で日本の戦後における最も重要なことがあった。それは三井三池炭坑における労働争議である。ここで紹介することは、その争議の中で起こった一つのことについてである。

 

その労働争議の中で労働組合の人から「犬」と罵られた警官が「犬にも言わせてほしい」という文章を書いた。それを読んだ九州大学の教授、滝沢克巳は新聞に投書し労働組合に釈明を求めた。しかし、なんの応答も無かった。滝沢克巳はこのことをキリスト者の平和会議で問題提起した。この会議に参加していたある牧師がその時こう述べた、滝沢の発言はキリスト者の良心的態度としては解かるけれども、そういう発言は三井三池炭坑における労働者の闘いにとって、マイナスの役割しか果たさない。

 

この会議に参加していた人の中に、井上良雄がいた。井上はこの問題について文章を書いた。井上はそれを公にし、問題を提起した。それは次のような主旨の文章である。

ここで、それを紹介する。

 

労働組合の論理としては三井三池の労働争議は労働者の権利を守る大きな闘いであって、この中では警官に対する侮辱ということは枝葉末節なことに過ぎないと考えるとすれば、それでいいのだろうか。労働者の権利を守る闘いは根本的には人間を守る闘いである。この人間を守る闘いはあらゆる面に及ぶし、及ばなければならない。とすれば、「犬」と呼ばれた警官の問題はどうでもよい枝葉末節のことではなく、重要な問題として考えられなければならないのではないか。警察官を職業としている人間に対して「犬」と呼んで人間としての尊厳を傷つけた。人間を守る闘いはこのような人間の尊厳を踏みにじる問題、これを重要な問題としていくべきではないか。これは確かに難しい問題である。実際の場において、そこまで考えて取り組むことは極めて難しい。しかし、人間を守るという闘いはこのような困難な課題を引き受ける中でなされることではないか。そういう意味では人間を守るという闘いは困難で狭い道を行くものとならざるを得ないのではないか。この狭い道を避けてしまうと、人間を守るという闘いが人間を踏みにじるという逆のことをしてしまいかねない。わたしたちはどれほど狭い道であろうともこの道を行く外ないのではないか。

 

わたくしは井上良雄のこの文章から極めて重要な示唆を与えられた。わたくしがどれだけのことをなしえたか問題と課題がいつも残ったが、井上良雄の言うところは、わたくしの座右の銘であった。

 

平和をもたらす運動はその方法も平和的であることが求められる、平和は平和の道においてしかそこに至ることはできない、そうでないと平和運動自体が平和を壊す。わたしたちの証しするものが福音であるとすれば、これを証しする方法も福音の香りがするものでなくてはならない。この井上良雄の言うところは、わたくしにとって決定的に重要なものとなった。

 

きょうの福音書の物語は、ろばに乗ってエルサレムに入城するイエスを伝える。イエスは預言者の預言を実行した。平和をもたらす王はろばに乗る、すなわち平和の存在と方法において平和をもたらす、この預言をイエスは実行した。

 

わたくしは、改めて、いまいちど、このイエスを自らに刻印しようと思う。