マルコ福音書より(22)10章17~22   〈永遠の命〉

2015年09月24日 09:49

ある人がイエスの所に来て問うた、

「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか。」

 

イエスは答えた、

「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え。」

 

この人は答えた、

「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました。」

 

イエスはこの答を聞いて言われた、

「あなたに欠けているものが一つある。持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」

 

ここでイエスはこの人に財産を手放すことを奨めている。が、はたしてこの奨め自体がきょうの物語のテーマであろうか。

 

ここで「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいか」の答としてイエスが示したものは「殺すな」で始まる律法の教えである。この律法の教えは当時の人々はよく承知していた。モーセの十戒の中にある教えである。

 

モーセの十戒は二枚の石板からなっていて、イエスがここで示した「殺すな」で始まる律法の教えはその二枚目にあるものであった。ここに登場した人が自分は子どものときから守っていたと言っているのは、この二枚目にある教えであった。ここに登場した人はその自負の通り二枚目にある教えについては守ってきたのであろう。

 

ところで、しかし、一枚目にある教えについてはどうであったろうか。この人は守っていたのであろうか。

 

モーセの十戒の一枚目にある教えは何であるか。

 

それはひとことで言えば、「神名ヤハウエ、この神を神とする」という教えである。

 

ここで興味深いことは、イエスがこの人に問いを出すその仕方である。イエスはここでこの人に、あなたはモーセの十戒の一枚目にある教えについては守っているかという問い方をせず、あなたは財産放棄の用意はあるか、財産の支配から自由であるかという仕方で問う。

 

この人はイエスのこの問いに返答することができなかった。それは、この人が生きる根拠を自分の財産に置いていたからであった。

 

生きる根拠を財産に置いていたということは、財産を生み出すに至った自分の能力に自信を持ち、自分の能力を生きる根拠にしていたということである。

 

きょうは、この人の問題を改めて考えてみたい。

 

ここに登場した人は、モーセ十戒の二枚目にある「殺すな」で始まる日常生活における社会正義の教えについては守っている人であった。しかし、モーセ十戒の一枚目にある「神名ヤハウエ、この神を神とする」という教えについては守り得ていない人であったと言わなければならない。

 

ここで考えなければならないことは、モーセ十戒の一枚目にある教えを守るということは何を意味することであるか、「神名ヤハウエ、この神を神とする」ということを守るとは何を意味することであるか、ということである。

 

 旧約聖書において「神名ヤハウエ、この神を神とする」、これは次の問いとの関連において登場している。それは、あなたが拝している神は偽りの神ではないのかという問い、この問いとの関連において登場している。

 

では、偽りの神を拝するということは何を意味するか。

 

偽りの神を拝むということは、聖書に即して言えばこうなる。力ある者を拝すること、力ある者が力ない者を支配し服従させている現実を肯定すること。

 

旧約聖書において「神名ヤハウエ、この神を神とする」は宗教上の事柄であるが、同時に社会上の事柄であった。すなわち、力ある者によって力なき者が支配され抑圧され疎外されている、この社会不正義の問題、これに対し抗うという事柄であった。

 

 ところで、きょうの物語に登場した人はイエスの前から立ち去って行ったが、ここで私の推量を言わせていたくと、これはこれで一つの決断であったのではないかと思う。このときのこの人には偽りの神を拝む状況に対し抗う意思はなかった。この人は自分がそうであることを認めた。この人がイエスの前から立ち去ったのは、こういうしだいであったのではないかと思う。

 

この人のそれからの人生はどのようであったか。この人は悩まないために「永遠の命」の問いは持たないで人生を生きていったのであろうか。

 

 ここで、一つの話しをしたい。

 

この国日本が「昭和」から「平成」に元号を変えたとき、わたくしはM市で人権運動に加わっていた。

 

例会で、メンバーの一人がわたくしにこう言うのであった。きょう自治労の全国大会があり、そこに日本基督教団というキリスト教の教会の議長をしている人が招かれ講演があった。自分はその講演を聞き感銘を受けた。

 

わたくしが講演はどういうものでしたかと尋ねると、彼は講演内容を丁寧に話してくれた。

 

日本基督教団の議長をしているその人は講演の中でこう語った。自分の父は牧師をしていた。父は治安維持法に抵触したとのことで獄に捕われることになった。罪状は天皇の神聖を犯したというものであった。父は獄中で死んだ。自分は獄中で餓死し、枯れ木のようになった父を引き取りに行った。自分はこの体験を持つゆえ天皇制国家を批判する資格があると思っている。

 

しかし、自分は深い反省と悔い改めなしに天皇制国家を批判することはできない。なぜなら、今、自分が議長をしている日本基督教団は、天皇を神とするよう迫った国家に対し否を言うことができず、自分たちの信仰からすれば神ではありえない天皇を神とし、この偽神の行う犯罪に教団として積極的に協力したからである。

 

自分は、今ここで、みなさんの前で、日本基督教団が犯した罪を告白する。自分はこの罪の告白に立って、天皇の統治を肯定する「大嘗祭」を実施するこの国政府に対し批判するものである。

 

人権運動を長年担ってきた彼は、こう言うのであった。労働組合の大会でこういう話をする人はこれまでいなかったのではないか。自分はこの講演を感銘深く聞いた。

 

彼はこう話した後、わたくしに、この日本基督教団の議長を知っているかと尋ねた。

わたくしはおずおずと、この議長は自分の属する教団の議長であると答えた。

 

わたくしは二ヶ月後に教団議長に会う機会があり、次のようなことを申し述べた。

 

反戦平和のヴェテラン運動家が自治労の全国大会での先生の講演を聞き深い感銘を受けたと言っていた、このことをお伝えする。わたくしは、先生のような体験をなさった方が「大嘗祭」が実施されるこの時に教団議長をされている、ここに神の配慮があると思われてならない。

 

ここで、きょうの福音書物語の結びに記されているところを、いまいちど読んでおきたい。そこには、こう記されている、

「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。」

 

「永遠の命を受け継ぐには」と問うたこの人、

この問を持ったがために問われることになったこの人、

この問いに耐えられずイエスの前から立ち去ったこの人、

 

この人に対するイエスのまなざしは、「この人を見つめ、慈しむ」であった。

 

ここでわたくしの推量を言うと、

 

このイエスのまなざしは、立ち去っていくこの人に、

「永遠の命を受け継ぐにはどうすればよいか」この問いを持ち続けて生きる、

その期待のまなざしであったのではないか。