マルコ福音書より(21)9章14~29 〈信無き我を助け給え〉
物語によると、人々は戻ってきたイエスを見つけて非常におどろき駆け寄ってきて挨拶した、ところが弟子たちはイエスが戻ってきたのに気付かなかった、議論に夢中になっていたからである、とある。
ここには二つのものを比べるという描写の方法がとられている。イエスを見つけて非常におどろく人々と、議論することに夢中になっていてイエスに気付かない弟子たちと、この両者が比べられている。この描写の意図は、弟子たちのこのありようはこれでよいのだろうかという批判にあると思われる。
イエスは弟子たちに議論の内容を尋ねた。そのとき弟子たちは黙っていて、答えられなかった。弟子たちが答えられない理由を福音書の著者はこう記している、
「弟子たちは自分たちのうちで誰が一番偉いかを議論していた。」
この議論はどの共同体にも生じる。イエスの弟子たちにおいても生じていた。ここで問題は、弟子たちがその議論に熱中していたために戻ってきたイエスに気付かなかったということ、である。ここには、弟子たちに生じる問題が鋭く提示されていると言ってよいのではないか。
ところで、「何を議論しているのか」のイエスの問いの後、人々の中の一人がこう言うのであった。弟子たちに重篤な病にある子どもの癒しを頼んだが、弟子たちにはできなかった。つまり、ここで言われていることは、弟子たちにできることは議論であって、苦しむ者の問題の解決ではないということ。
そこでイエスは言われた、
「その子をわたしの所に連れて来なさい。」
人々はその子をイエスの所に連れてきた。ここで苦しむ者をイエスの所に連れてきたのは人々であった。これをなすべきであったのは弟子たちであったのではないか。
弟子たちは自分たちでは解決することができなかった。それならば、その苦しむ者をイエスの所に連れてくる、それが弟子たちの役割というものではなかったか。ここでそれをしない弟子たちの姿が浮き彫りにされている。
物語はこの後、イエスとその子の父親との会話を記しているが、そこは後で読むことにする。
物語によると、イエスはその子の癒しに向かうとき、人々が走り寄って来るのを見る、それから癒しの業を行った。ここに描かれているのは、イエスの癒しの業に関心があったのは人々であったということ、言いかえれば、弟子たちではなかったということ。
ここで福音書の読者には問いが生じるのではないか。
この福音書はどうしてこうも弟子たちの批判を繰り返すのか。福音書が最初期キリスト教の伝道文書であったとすれば、キリスト教の指導的立場にある弟子たちの問題をあからさまにし、それを繰り返すのはどうしてであろうか。
普通の共同体ならこんなことはしない、むしろ逆に美化する。福音書はその逆である。どうしてであろうか。
わたくしの推量ではこうなる。
弟子たちが証しするイエス・キリストは寛容と赦しに満ちている。その寛容と赦しは徹底的である。イエス・キリストを証しする者がその過程で無様な姿をさらけ出すとき、イエス・キリストの寛容と赦しはこの無様な者たちに向けられないということにはならない。この者たちに寛容と赦しは与えられる。
福音書著者が弟子たちの無様な姿を隠すことなく描き出すのは、イエス・キリストの寛容と赦しが徹底的であるということを言うことに意図があった。描かれている無様な弟子たちは、イエス・キリストの寛容と赦しが徹底的であるということを言うための見本であった。わたくしは推量する、無様な姿の弟子を描くのはイエス・キリストの寛容と赦しの深さ広さを示すためであった。
ここで、きょうの物語の中心にある、イエスと息子のことで悩んでいる父親との会話、そこを読んでみることにする。
イエスはその父親に声をかける。声をかけられた父親は答える。
ここで読み損なってはいけないものがある。それは、イエスがこの父親に自らの思いを吐露する機会を与えているということである。
イエスはここで問題を抱えている者が語り始める、それが先になるようにしている。ここでイエスはまず為さったことは、問題を抱えている者が自らの思いを吐露し、語り始めるということ、であった。
ここで苦しむ当事者は彼の息子である。イエスは苦しみの中にある息子に向き合うのであるが、その前にその息子の父親と会話する。
父親が苦しみから解放されるのは息子が苦しみから解放されることによってである。そのとき問題は解決する。そうであるならイエスは問題を解決することに直ちに向かうべきではないか。ここでイエスは父親と会話しているが、そうしているよりも息子本人に向き合って問題そのものの解決に当たるべきではないのか。
しかし、物語によると、イエスはそうせずに、息子の父親との会話をその前にするのである。どうしてであろうか。
ここで、イエスと父親との間で交わされた言葉を読んでみよう。
父親はこう言うのであった、
「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。」
これに対しイエスはこう言われた、
「できればと言うのか、信じる者には何でもできる。」
ここでイエスは、問題の解決に向かう前に、「信じる」ことを求めている。このことはこの福音書において、これまでになかったことである。イエスは問題の解決に向かう前に当事者やその関係者に対しイエス自身に対する信頼を持っているかどうかを尋ねることをしていない。
福音書のこの後もイエスへの信頼のあるなしを問題とする場面はまったくない。ここだけはイエスは信頼があるかを尋ねている。これはいったいどういうことであろうか。
推量するに、ここで、イエスは父親との間にイエスとの関係をつくろうとしている、ということではないだろうか。
父親は叫んだ、
「信じます。信仰のないわたしを助けてください。」
ここで父親は「信仰のないわたし」と言った。
父親の言う「信仰」、これは「信じて仰ぐ」という表現よりも、文語訳聖書が訳し出している、「信無き我を助け給え」の「信」、これのほうがよいのではないかと、わたくしは考える。
「信が無い」ということは人間の根本に関わる重大事であることを意味する。すなわち「信が無い」ということは人間として最後のものを失うということ、人間であることが壊れてしまうということ、それを意味しているからである。
ここに登場している父親は「信無き我」と言った。このとき彼は自分が人間として最後のものを失っているということを言い表したのではなかったか。このとき彼は自分が壊れてしまっている人間であるということを言い表したのではなかったか。
彼は「信無き我を助け給え」と叫んだこのとき、彼はこれまでの人生経路において人間として最後のものを失ってしまった、人間として壊れてしまった、それを与えてくださいと叫んだということはなかったか。
ここでイエスが父親にもたらそうとしているものは彼の息子の問題の解決であるが、イエスはそれよりも前に、父親にもたらそうとしているものがある。それは失ってしまった人間として最後のもの、すなわち「信」。イエスはこれを父親にもたらそうとしたのではなかったか。
きょうの福音書物語に登場した父親は叫んだ、「信無き我を助け給え」、と。彼は自分が「信無き人間」となっていること、すなわち人間として最後のものを失っている、壊れている人間であることに気付いた。父親にそれを気付かせたのはイエスであった。
イエスは、父親が自分の人間としての危機に気付く、その後で、父親の息子に向かう。父親の息子に向う前に父親に向き合ったのが、イエスであった。
わたくしは、きょうの福音書物語から深い示唆を与えられた。