マルコ福音書より(19)6章45~52 〈わたしだ〉

2015年08月12日 15:11

 

きょうの物語は嵐の海で立ち往生する舟の中の弟子たちにイエスが海を歩き近づいてゆく物語である。

 

物語は「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せた」「イエスだけは陸地におられた」と記しているところからして、この物語はイエスが弟子たちに嵐の海で立ち往生する体験を敢えてさせた物語、と言ってよいだろう。

 

そう読んだうえで、この物語のテーマは何であるかを問うとどうなるか。

わたくしの読むところ、この物語のテーマは次のイエスの言葉にあるのではないか。

 

「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

 

 福音書はイエスについて証しするとき、イエスは「わたし」を前に出して語り行動するイエスである。つまり、一人称単数で語り行動するイエスである。もちろん三人称でイエスについて証しされるところはあるが、物語の中心のところにゆくと「わたし」を前に出して語り行動する、つまり一人称単数のイエスである。福音書のこの特徴は聖書の全体を貫く特徴でもある。

 

その事例を挙げてみると、

 

 第一の事例

神がノアに対し「わたしは」という一人称単数で語りかける場面がある。それまでの神は「神」という三人称で言い表されているが、その三人称の神がノアに「わたしは」と一人称単数で語りかける場面がある。そのとき神はノアに対し「箱舟を造る」ことを命じる。つまり、神が一人称単数で「わたしは」と語るとき、使命の委託をするときである。

 

第二の事例

神がアブラハムに対し「わたしは」という一人称単数で語りかける場面がある。それまでは神は「神」という三人称で表現されているが、その三人称の神がアブラハムに「わたしは」と一人称単数で語りかけるとき、それは神が命じるときである。神がアブラハムに命じたことは「この地から離れ決別せよ」。

 

 第三の事例

神がモーセに対し「わたしは」という一人称単数で語りかける場面がある。それまでは神は「神」という三人称で表現されているが、その三人称の神がモーセに「わたしは」と一人称単数で登場するとき、それは神が命じるときである。神がモーセに命じたことは「苦役の地から苦役にある人々を脱出せしめよ」。

 

 以上の三例は旧約聖書に登場する神の特徴を示す。旧約聖書に登場する神は事を起こすとき「わたしは」と一人称単数で登場し、その起こす事に当たるよう人に委託を行う神である。

 旧約聖書における神は固有名詞を持つ。それは「ヤハウエ」。この名を数えると、6千八〇〇余ほどあるという。この名の由来の説明として、次の見解が現時点では妥当のようである。

 

出エジプト記三章に記述されているところによれば、モーセが神の命令を受けたとき、その神の名をたずねると、神はこう言われた、

 

「わたしはある。わたしはあるという者だ。これがわたしの名である。」

 

ここに出てくる「わたしはある」、この一人称単数を三人称単数にしてみると「ヤハウエ」となる。そうすると、ノアに現れ「わたしは」と語りかけた神、アブラハムに現れ「わたしは」と語りかけた神、モーセに現れ「わたしは」と語りかけた神、この神は「ヤハウエ」であった、となる。そうすると、かれらに現れた「わたしは」と語りかけた神は、事を起こす神であり、事に当たるよう人に委託を行う神である、となる。

 きょうの福音書物語に記述されているイエスの「わたしだ」という言葉は、旧約聖書に登場する神の名の「わたしは」と重なる。異なるのは、旧約聖書では「わたしは」と語るのは神ヤハウエであるが、新約聖書ではイエスであるというところ、そこだけである。

そうすると、きょうの福音書物語で「わたしは」と語るイエスは、旧約聖書に登場する神ヤハウエと同じく、事を起こす神であり、事に当たるよう人に委託を行う神である、ということになる。

 

イエスは嵐の海で立ち往生する弟子たちに現れ、「わたしだ」と語りかけた。これは、旧約聖書で神が事を起こすに当って委託を行うとき「わたしは」と語った、それと同じく、イエスは弟子たちに委託を行う、ここはそういう場面であると理解して間違いあるまいと思う。

 

 ここで「わたしだ」と語るイエスの言葉を聞いた者をいま一人挙げてみよう。それはパウロである。

使徒言行録の記述によると、パウロは「わたしだ」と語るイエスの言葉を聞いた。パウロがキリスト教徒を迫害する道の途上で聞いたイエスの言葉は、こうであった。

「わたしはあなたが迫害しているイエスである。」

 

イエスが「わたしは」とパウロに語りかけてきたとき、イエスは地上にはいない。パウロが聞いたイエスの「わたしは」は「霊的な存在」となったイエスの声である。使徒言行録はパウロのこの「聴いた」の告白を三度伝えている。これには使徒言行録著者による脚色がなされているようであるが、このパウロの告白には直接体験した者から由来すると言い得るものが含まれている、とする歴史家の見解がある。

 

使徒言行録の記述によれば、パウロはイエスの「わたしは」の声を聴いたとき立っていることができず、視力を失い、飲食が不可となった。この記述の言っていることは彼のこれまでの人生がこのとき止まったということ。この後パウロは新たな人生へと歩み出すことになるが、その転機となったのが「わたしだ」と語るイエスの言葉であった。彼が新たに始めた人生は事を委託される人生であった。

 ここで考えたいことがある。

 

 最初期キリスト教の伝道活動がなされた世界はギリシャ文化の世界。このギリシャ文化の世界は誰でもが認識し了解できる普遍的なものが真理であるとされる世界。キリスト教はこのギリシャ文化の世界の認識に耐え得るものとして示すことになる。そうするとキリスト教に変化が生じる。認識に重きを置く三人称の神の名が多く登場し、一人称単数の神の名「わたしは」は少なくなる。そうすると次のことが生じる。

 

人は一人称の神と向き合うとき、個としての「わたし」が成立する。神の「わたし」に向き合う人としての「わたし」が成立する。しかし、人が三人称の神に相対していると、しだいに神の「わたし」と人の「わたし」との出会いを失ってゆく。これに伴って神は「思想」となり「理念」となってゆく。そうすると、新たに事を起こし、事を委託する神との出会いはしだいに失われ、神の委託の前で決断を求められ、迫られるということ、こういうことがしだいに失われてゆく。

 

ここでいまいちど旧約聖書において「わたし」と語る神に出会った者たちに何が起こったかを確認しておきたい。

 

神はノアに命じた、洪水が起こる前に「箱舟」を造れ、と。これは、人間のみならず全ての生きとし生けるものの命を守り保全すること、この使命の委託を神が人間ノアに為したということを意味していた。ノアは全ての命を守り保全する、この神の命ずるところを担った。神がこの委託を人間ノアに行ったとき、神は「わたしは」と語る神であった。

 

神はアブラハムに命じた、バベルの塔の建つ巨大な国家の領域の外に出、これと決別せよ、と。これは、巨大国家に依存することによって生じる自由のない支配統治に甘んずる、そういうことではなく、自主独立の社会を創出し構築する、この委託を神がアブラハムに行った、これを意味していた。彼は神のこの委託に応えた。神がこの委託をアブラハムに行ったとき、神は「わたしは」と語る神であった。

 

神はモーセに命じた、最強の巨大国家の支配領域にいる人々をその外に脱出せしめよ、と。これは、その権力支配の下で隷属せしめられている人々をそこから解放し、自主独立の社会を創出し構築する、この委託を神がモーセに行った、これを意味していた。モーセは神のこの委託を担った。神がこの委託をモーセに行ったとき、神は「わたしは」と語る神であった。

 

旧約聖書の記述によれば、「わたしは」と語る神との出会いは、出会った者が「わたし」に目覚める、そのとき人は「わたし」を確立する、全体の中に呑み込まれてしまうのではなく、全体から一歩外に出て、神から示されたことを担う「わたし」を確保する。

 

人がこの意味における「わたし」になり得るには「わたしは」と語る神との出会いによる。もしこの出会いがなければ、私は「わたし」になり得ず、私は全体の中に呑み込まれ、「わたし」を失うことになる。聖書はこれを語ってやまない。

 

 きょうの福音書物語には「わたしだ」と語るイエスが登場する。

 

これを伝承し証言するこの福音書物語の発する使信は、旧約聖書をふまえたとき明らかになる。きょうの福音書物語の場面はイエスが旧約聖書の神ヤハウエのようにして弟子たちに神の意思を委託する場面である。

 

この場面は今日のわたしたちにも起こり得る場面であると思う。

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