マルコ福音書より(18)7章24~30 〈しなやかに〉
きょうの物語には女性が登場している。
彼女は多くの困難を抱えていた。
彼女の娘は難病に苦しむ。彼女に経済的な支えとなる者はいなかったと思われる。
当時の社会の父権制の中で彼女は不利な状況を強いられていたことであろう。
以上に加えて、彼女がギリシャ人であったことも、ユダヤ教徒の多住する社会の中においては異邦人として区分けされ、不利な状況を被っていたことであろう。
ここに登場する彼女は、このような事情を抱えていた。
ここで、このような事情を抱えていた女性が、イエスに会いに来た。
彼女はイエスに願いをぶつける。激しくぶつける。
多くの困難を抱えている彼女であったが、その中でも最も重い困難は難病に苦しむ娘のこと、母である彼女は娘の癒しを願い、この願いをイエスにぶつけた。ところが、この彼女に対するイエスの振る舞いは、極めて冷ややかな、と言わざるをえないものであった。イエスはこう言うのである。
「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
このイエスの振る舞いについて、批判的な意見が出されている。
当時のユダヤ人たちは救いということに関して自分たちが優先されるべきであると考えていた。ここに登場しているのはギリシャ人、つまり、ユダヤ人からすれば異邦人。異邦人の救いは二の次でしかない。イエスがここで示した対応には、この当時のユダヤ人の民族優先の観念がそのまま表れているということではないのか。
ここに登場しているのは女性である。当時のユダヤ人男性からすると、女性の願いはしかるべき男性を通してなされるべきものであり、このように直接持ってくる場合には取り合わなくてもよいとされていたようである。イエスがここで示した対応にはユダヤ人男性の女性に対する差別的優越観念がそのまま表れているということではないのか。
今日このような批判的な意見がこの物語におけるイエスに対し向けられている。
きょうはこの批判的意見を正面から受けて読んでみることにする。
まず、ここで、イエスとこの女性とのやりとり、それをいまいちど読み直してみることにする。
ここに登場している女性は、イエスの冷ややかな物言いと言わざるをえないその言葉にたじろぐことなく、こう言うのであった。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます。」
すると、イエスはこう言われた、
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
ここで、イエスの言われた言葉の意味を正確にとらえるために、細心の注意が必要と思う。というのは、このイエスの言葉をどういう意味に受け取るかによって、イエスについての評価が異なることになるからである。
ここで問題となるのは、原文の訳の問題である。
わたしたちの教会が今採用している『新共同訳聖書』は「それほど言うなら」と訳している。以前に採用していた『口語訳聖書』はここを「その言葉で十分である」と訳している。この二つ、かなり異なるものとなっている。
『新共同訳聖書』の「それほど言うなら」は「それほど言うなら、やむを得ない」という意味になる。『口語訳聖書』の「その言葉で十分である」は「その言葉で十分、あなたの言葉は申し分のないものだ」という意味になる。この二つ、イエスの言葉の意味においてかなり異なる、いや逆になっていると言ってよい。
原文を直訳してみると、こうなる。
「あなたのその言葉のゆえに行きなさい。悪霊はあなたの娘から出てしまった。」
ここを直訳してみると、イエスがここで言っておられることは、こうなる。すなわち、
ここで女性が言った言葉、それで悪霊を追い出すのに十分だ、と。
そうすると、ここは『口語訳聖書』の訳が適切であり、『新共同訳聖書』訳は適切ではないということになるのではないか。
このマルコ福音書において「あなたの語ったことで十分だ」という主旨の言葉がイエスから発せられる例は、すでに5章34節にある。そこではイエスは難病に苦しむ女性に対し「あなたの信仰があなたを救った」と言っている。イエスは彼女が行ったことを「あなたの信仰」と呼び、それはあなたの病を癒しうるに十分だと言われた。わたくしの読みでは、この5章34節ときょうの7章29節とは同じ方向にある。
この福音書の著者は、5章における物語では「あなたの信仰があなたを救った」という言い方で病む女性の行動を「十分で申し分のないものである」と評価するイエスを描写する。7章のきょうの物語では病む娘を持つ母親の言葉を「十分で申し分のないものである」という言い方で評価するイエスを描写する。
いずれも女性。いずれの女性も自ら積極的に動く。イエスはこのように積極的に生きる女性に対し「十分で申し分のないもの」と高く評価する。この福音書の著者はイエスをこのように描写する。
わたくしの読みでは、以上のところから、イエスがこの女性に対し冷ややかな対応をした、その意図を次のようなこととして汲み取ることができるのではないか。
イエスは彼女に抵抗することを期待した。
この女性は、事実、抵抗した。
ここで彼女が示した抵抗は「しなやかな抵抗」であった。
それは、竹が風に押し倒されても元にもどる、あの「しなやかさ」、
彼女は竹のしなやかさをもって抵抗した。
イエスは彼女からそれを引き出そうとした。
そして、実際、引き出した。
ここで、きょうも旧約聖書から示唆を受けることにしたい。
イスラエルの民はバビロン捕囚のとき、神の民の消滅の危機にあった。
この歴史の局面に居合わせたのが預言者エレミヤであった。
彼はこの歴史の破局の中で留意に値することを為す。ここでその一つを紹介する。
彼はバビロン捕囚となった民に手紙を送る。その手紙の内容がエレミヤ書29章に記されている。
そこには二つのことが記されている。ひとつは「子孫を残せ」、いまひとつは「敵であるバビロンの平安のために祈り、なすべきことを尽せ」。エレミヤは、これは神の意思だ、これに反したら神の御旨に反する、とまで言い添えたうえで、この手紙を出している。
この手紙でエレミヤが言っていることは、捕囚の地で生き残れ、息を切らしてはならない、ともかく生き残れ、神の民として生き残り続けよ、子孫を残し、敵国のために尽力せよ、である。
このエレミヤの手紙の言うところについて、わたくしはこう表現してみたらどうかと思う。すなわち、可能な限り「しなやかに」「したたかに」生きること。
なにゆえそうであることが求められるのか。
預言者エレミヤによれば、歴史を導くのは神、この歴史を導く神のはからいに委ねる、これが神の民のありようである。エレミヤはこう述べるのであるが、これは彼の信仰が言わしめたもの、と言ってよいと思う。この預言者の信仰に学びたいと思う。
そして、きょうの福音書の物語に登場した女性に学びたいと思う。多くの困難に中にあって竹の「しなやかさ」をもって生きる彼女に、深く学びたいと思う。