マルコの福音書から(9) 2章23~27  〈人間と法〉

2015年01月24日 08:33

 

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」 

 

このイエスの言葉は当時の人々、ことに社会の体制を維持している人々を強く刺激した。彼らはこの発言のイエスに対し激しく憤り、イエスを抹消するまでに至った。いったいなにゆえであったか。

 

「安息日」の規定は特別な意味をもっていた。安息日の規定は自分たちが「神につける民」であることを確認する最も重要な規定であった。この規定の遵守において自分たちが「神の民」であることが確認される。もしこの規定が場合によっては遵守されなくてもよいとなれば、自分たちが「神の民」であることを確認することができなくなり、自分たちの固有性が消失し、自分たちが無となる。よって、この規定は万難を排して遵守されなければならない法であった。この背後に歴史があった。それを承知しておきたい。

 この民はバビロン捕囚を強いられた民であった。この民はバビロン捕囚においてこれまで体験したことのない苦難を経験する。それは自分たちが自分たちであることを続けることができなくなるという経験であった。この民は自分たちが神に招かれ神の心を知らされている民であるとする自意識を持っていた。これがこの民の自分たちが自分たちであるということであったのだが、これがバビロン捕囚の中で消滅し無となってしまう事態に立ち至った。

 

この民はバビロンにおいて自分たちとは異なる価値観にある大多数の人々の中で極めて少数の存在であった。この民はその多数者の価値観に取り込まれ、同化されてしまう状況にあった。これはこの民の生き続ける意味が潰え去ること、そして存在が無となることを意味していた。

 

この民はこれまでに体験したことのないこの苦難状況の中で活路を模索した。自分たちが自分たちであることを失わず、自分たちとして存続してゆくにはどうすればよいか活路を模索した。

この民が活路として見出した道は律法を守り律法に服することによって自分たちであることを続ける。具体的には安息日の定めを守り安息日の定めに服することで自分たちが自分たちであることを続ける。この道はこの民の活路となった。自分たちは神の心を知る民であるとする自意識の消失を止めることができた。そしてその自意識をいっそう強めることとなった。この民がバビロン捕囚の苦難の中で得られた命題は、自分たちの上に安息日の定めがあり安息日の定めの下に自分たちは存在している、というものであった。

 

 イエスはこの歴史をもちろん承知していた。この民がバビロン捕囚の中で、自分たちが自分たちであることを失う状況の中で、安息日の定めを自分たちの上に置き、自分たちを安息日の定めの下に置くことによって自分たちが自分たちであるということを失うことなく存続し得てきた、この歴史についてイエスは承知していた。

 

 しかし、その安息日の定めはユダヤの社会の中に分断を生じさせていた。遵守しない者は神の民から外された。安息日の定めはユダヤの社会に被疎外者を生じさせていた。安息日の定めはこの民の独自性を確保し無となることを防ぎ、この民が同化に抗って自分たちであることができるためにかつては有効であった。しかし、今や、安息日の定めはこの民の間に分断をもたらし、被疎外者を生じさせている。イエスはこの問題と向き合っている。イエスはユダヤ社会が陥っているこの問題の克服を試みた。

 

イエスは安息日の定めに関しこう言われた、

「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」

 

このイエスの発言は「人間と法」の関係に関する発言となっている。イエスは発言する、「法は人間の下にある、人間は法の上にある。」これは当時の社会における「人間と法」の位置関係を逆さまにしている。革命的発言と呼んでよいだろう。

 

このイエスの革命的発言は最初期キリスト教に影響を与えている。最初期キリスト教の伝道者パウロの書簡にその影響をみることができる。そこに書かれていることは革命的と言ってよい。

パウロのガラテヤ書に次のような文章がある。

「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなた方はキリストを着ている。あなたがたにあってはユダヤ人もなくギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない。」

 

この文章は最初期キリスト教のアンティオケ教会における洗礼式の時に司式者が朗読したか、あるいは、受洗者本人が朗読したか、そのどちらかであると思われるが、キリスト教徒になるということはこういうことだ、自分たちはこういう者になるのだ、という宣言であった。

 

この時代、民族の違いにより、経済力の違いにより、性の違いにより、人間の位置が定められていた。この定めの背後に「法」があった。「人間と法」の位置関係を決める「法」があった。それゆえ「ユダヤ人もなくギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」この最初期キリスト教の教会の宣言は「人間と法」の位置関係を定めた「法」を解体する方向に向かうものであった。

この宣言は実行を目指していたようである。受洗時にユダヤ人である場合その宗教的特権は放棄、また経済力があるという場合奴隷を持っていたであろうから、この特権は放棄、また男性である場合そのことのゆえに得ていた特権は放棄、これの実行が目指されていたようである。

 

最初期キリスト教はこのように「人間と法」の位置関係に関し革命的方向を示している。これはマルコ福音書に記されたイエスの安息日の定めに関する革命的主張の影響による、と、わたくしには思われる。

 

マルコ福音書に記されているイエスの「人間と法」の位置関係についての発言、すなわち「法は人間の下にあり、人間は法の上にある」は重要さにおいて決定的。わたしたちはこのイエスの「人間と法」の位置関係の発言を自分の状況において活かすことを試みる、それが求められている。

 

さて、この問題に関し、考えておかなければならないことがある。

最初期キリスト教の伝道者パウロは律法からの解放がキリスト教であると宣べ伝えた。この彼の宣教はイエスの「人間と法」の位置関係の発言を展開させたものと言うことができる。彼はその宣教の中で一つの問題に直面する。それは「食べ物」に関する規定に対して人はどういう位置関係を取るかという問題である。

 

最初期キリスト教に入信した者の多くはパウロもペトロもそうであるが、ユダヤ教からの者たちであった。このユダヤ教からの者たちはユダヤ教の律法の定めに長い間あったので、このユダヤ教の律法の定めから自由になることがたいへん難しくあった。とりわけ「食べ物」についてユダヤ教の律法の定めから自由になることが難しくあった。食べ物の中で肉は異教の神々に捧げられたものがほとんどであった。ユダヤ教からの者たちはキリスト教に入信後も、異教徒たちとの会食ではこれが入り混じることがあるゆえ、会食そのものを避ける者が少なからず存在した。しかし、これに対しキリスト教に入信後はこのユダヤ教の枠を取り払い乗り越えた者たちも相当数存在した。

 

ここに「食べ物」をめぐってキリスト教会の中に深刻な対立が生じた。律法からの自由がキリスト教であるとして宣べ伝えたパウロはこの基本原則に立ってこう述べる、キリスト・イエスにある者は律法から自由にされているゆえ異教の神々に捧げられた肉であっても食べてよい。しかし、パウロはこうも言う、もしユダヤ教の律法から自由になれない教会員が肉を食べている教会員を見て教会から去るということがあるとすれば、自分自身は肉を食べないことにする。

 

このパウロの主張を最初期キリスト教の人々は直ちには受け入れなかったのではないか。あれほど強く律法からの自由がキリスト教であると宣教したパウロが一転してユダヤ教の律法の規定を守ると言う。このパウロの主張は最初期キリスト教の人々からすれば矛盾であり受容不可であった、こう言ってよい。最初期キリスト教の中にパウロを批判する者がいた。パウロは律法からの自由というキリスト教を捨ててユダヤ教にもどってしまった、と。

 

ここで考えたいのは、律法からの自由がキリスト教であるという主張をパウロは捨てたのかということについて。この問いに対するわたくしの理解はこうなる。

律法からの自由がキリスト教であるとするパウロが直面した問題とは、律法から自由であるということを誇るという問題、これを別な角度から言うと、律法から自由であるということに縛られているという問題であった。パウロが知ることになったことは、「律法からの自由」ということは「律法から自由であるということからも自由」であるということ、「律法からの自由」ということは、そこまで行く自由であるということであった。

 

パウロが自分自身は肉を食べないことにすると述べたとき、彼は教会から教会員が去ることになることのないように配慮したことであったという説明が通常なされ、パウロの言い方もそうなっているが、ここで事柄を掘り下げて考えてみなくてはならない。

 

パウロが自分自身は肉を食べないことにするとしたとき、これは律法からの自由に達したことを誇る自分を超えてゆくこと、律法から自由であるということそれ自体に縛られている自分を超えてゆくこと、律法からの自由とはそういうことであるということ、これにパウロは気付いたということではなかったかと思う。

 

パウロが肉を食べないことにするとしたとき、かれは律法からの自由を制限したのではなくて、律法からの自由をむしろ最後までつらぬいた、と、わたくしは理解する。律法からの自由が彼において成熟した段階に入ったことを示しているのではないか。

 

 きょうわたしたちはマルコ福音書に記されているイエスの言葉を読んだ。人間は法の下にあるのではなく人間は法の上にあると宣言するイエスの言葉を読んだ。このイエスの言葉は最初期キリスト教に大きな影響を与えた。人間を法の下に封鎖し人間を圧殺する世の法は取り除かれ得るもの、いや取り除かなければならないとする最初期キリスト教宣教の目標を生んだ。マルコ福音書に記されているイエスの「人間と法」に関する革命的命題はわたしたちが自分の状況において目標とするべきものであって、これは最も重要な命題であると言わなくてはならない。

 

しかし、わたしたちはそれに続いて、律法からの自由を宣教したパウロがその中で肉を食べるか否かの問題に直面する中で「律法からの自由」の理解を深めたこと、すなわち、「律法からの自由からも自由である」ということが「律法からの自由」であるということ、この成熟した自由の理解へとパウロが至ったということ、このこともわたしたちはきょう確認した。わたくしは今日の「人間と法」の関係に関わる課題に取り組むうえで、この成熟した自由の理解が欠かせないということを体験する。

 

わたくしには複雑に交差する今日の現実の中で「人間と法」の関係に関わる課題に取り組むうえで、福音書のイエスと書簡のパウロの両者を総合して教示とするという

ことは必須の課題となっている、と思われる。

 

 

 

 

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