【創世記六章(二)】

2019年12月27日 16:12

1 〈洪水時代の始まり〉

 

6章9

「これはノアの物語である。」

 

この言い方は、原初史物語において定式的表現で、次の時代が始まることを示しているようである。原初史物語の作者は「これはノアの物語である」の言い方で、ここから次の時代が始まるということを示した、と言ってよいだろう。

 

原初史物語の作者は、ここから始まる次の時代を〈洪水時代〉であるとして描く。〈洪水〉は、再々述べてきたように隠喩表現である。〈洪水が起こる〉とは、洪水が生じさせる全てのものの壊滅、それと同じ事態が引き起こされるということ、〈洪水〉はそのことを言う隠喩表現である。

 

洪水が引き起こす事態と同じ事態は〈戦争〉である。戦争は洪水が引き起こす事態と同じ事態を、いや洪水が引き起こす事態と同じであるどころかそれをはるかに超える全てのものの壊滅を生じさせる。原初史物語はここで、ここから始まる次の時代を全てのものの壊滅を生じさせる〈戦争の時代〉として描く。ここはそう解してよいだろう。

 

原初史物語はここで、〈洪水の時代〉が始まろうとしているとき、すなわち〈戦争の時代〉が始まろうとしているとき、神はノアに〈箱舟を造れ〉と命じたと語る。そして、ノアはその神の命令に従った、と語る。

 

原初史物語はそう述べた後、〈ノア〉について次のように紹介する。

 

6章9

「その時代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」

 

このノアの紹介で重要なところは、「ノアは神と共に歩んだ」、というところにあるとおもわれる。この「神と共に歩む」の意味するところは、〈ノアは神に向き合い、神の苦悩を知り、神の求めるところを受け入れ、それに従った〉、そう解してよいだろう。

 

ここで、ノアは「神に従う無垢な人であった」とあるが、これはノアが〈義しい人〉であったという意味である。ここで、原初史物語はこのようにノアを〈義しい人〉という最高の評価をもって紹介している。ここでわたくしの推測を言うと、この最高評価の表現はノアの後の姿との対比対照のためであったのではないかとおもわれる。

 

洪水後、ノアは〈ぶどう酒〉によって酩酊状態となり、幕屋において裸で寝込んでしまった。この〈幕屋〉が礼拝をする所であったかどうかはともかくとして、失態のノアが描かれている。ここでノアを〈義しい人〉という最高評価の表現で紹介するのは、それとの対比対照のためであったのではないかと、詳しくは当該個所において検討するが、わたくしにはそう推測される。

 

この後、原初史物語はノアに子が三人いたことをしるす。

 

6章10

「ノアには三人の息子、セム、ハム、フェトが生まれた。」

 

わたくしの推測では、原初史物語の作者がこのようにノアに三人の子がいたことをしるしたとき、ここにメッセージを込めていたのではないかとおもわれる。それを読み取ってみると、こうなる。

 

原初史物語はこの後〈洪水〉の話、すなわち〈地の壊滅〉の話を始めるのだが、その前にノアには子たちがいたということをしるした。つまり、ノアにはノアを継承する者たちがいたということを語った。この語りにメッセージが込められているのではないかとおもわれる。

 

時代は〈洪水時代〉に入り、地の全てのものの壊滅が生じようとしている。このとき、神は創造した全てのものの命を保全しようとされた。その命の保全を神はノアを通して為すのだが、それだけでなくその後継者たちを通しても為し続ける。わたくしの推測では、原初史物語の作者がノアに三人の子がいたことをしるしたとき、そこにはこのようなメッセージを込めていたのではないかとおもわる。

 

この後にしるされる創世記10章の記述によれば、ノアの三人の子たちが基いとなって地上の全ての民族が増え満ちた、とある。この〈全ての民族が増え満ちた〉とは、神が創造に際して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、これの地上における具体的な展開であった。そうすると、この後にしるされる創世記10章の記述にある〈ノアの三人の子たちが基いとなって地上の全ての民族が増え満ちた〉は、神が創造に際して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、この神の意思をノアの三人の子たちが担うところとなったということ、それが述べられていると解される。

 

わたくしの推測するところ、六章10の「ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた」の語りは、後に語る10章の物語のための伏線を敷くものであったとおもわれる。

 

さらに言うと、11章の記述によれば、ノアの子の内のセムからアブラムが誕生する。このアブラムは神の救済の歴史を担うべく招かれそれに応じる人となる。そうすると、アブラムは神が創造に際して言われた「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、この神の意思を担う人となったということになる。このアブラムはノアの子のセムから出ており、この点においてもノアの子たちは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」、この神の意思を担う者たちとして位置づけられている。そうと言ってよいとおもう。

 

わたくしの推測するところ、原初史物語の作者はここでこう語った。すなわち、時代が〈洪水時代〉に入り、地の全てのものが壊滅せしめられようとしているとき、神はその創造された全てのものの命の保全のためノアを用い、ノアの子たちを用い、さらに全ての民族を用い、そしてアブラムを用いてゆく。神はそのようにして創造された全てのものの命の保全を為し続ける、神はそういう方である、これを言うために、原初史物語の作者は洪水物語の始まるところで、ノアに三人の子がいたことに言及した、ここはそう解してよいのではないかと、わたくしにはおもわれる。

 

原初史物語はこの後、次の記述を置いている。

 

6章11~13

「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた。『すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。』」

 

原初史物語は洪水物語の冒頭で、地の壊滅は人間が原因でありその人間は権力

にある人間であることについて述べている。原初史物語はここでさらに、その

地の壊滅の原因は取り除かねばならないと語る神の言葉をしるす。そして、そ

の除去のため「地もろとも彼らを滅ぼす」と語る神の言葉をしるす。

 

ここで問題となるのは〈神は地もろとも滅ぼす〉というところであるが、この

ことについてはすでにわたくしは自分の見解を述べた。が、ここは重要なとこ

ろであるので、それをいまいちど述べることにする。

 

原初史物語は〈神は地もろとも滅ぼす〉の表現を用いたとき、預言者の語りを

用いた。その預言者の語りであるが、預言者は地の破壊の原因者である世の権

力者たちに方向転換を迫り、それをしなければこの地は滅びると語った。その

とき預言者は神は地の全てを滅ぼすと語ったが、それは〈警告〉として語った。

原初史物語が預言者の〈神は全てを滅ぼす〉の語りを用いたとき、〈警告〉の意

味においてであった。したがって、原初史物語の語る〈神は全てを滅ぼす〉は

〈警告〉としてだけ読み、それ以外の読みは誤りとして退けなければならない。

このことをいまいちど確認しておきたい。

 

ここで、次のことに留意しておきたい。

 

原初史物語が預言者の語りを用いて〈神は全てを滅ぼす〉と語ったとき、この

〈警告〉はソロモン王政の社会の中で警告としての有効性を持ち得ていなかっ

た。この王政社会で神は名目上の存在であって、したがって、〈神が怒る〉とい

うことについては、警告としての有効性は失われていた。原初史物語の作者は

このことを知らないでいたわけではない。

 

原初史物語の作者はそのことを承知したうえで、すなわち〈神は全てを滅ぼす〉

この警告が警告としての有効性を何ら持ち得ていないことを承知したうえで、

しかし、それにもかかわらず、いや、社会状況がそうであるがゆえに、今や無

効になったかに見えるこの〈神は全てを滅ぼす〉この〈警告〉をなお敢えて提

示した。ここはそういうことであったのではないかと推察される。わたくしは

原初史物語作者のこの果敢な心意気に強い刺激を受けるしだいである。

 

原初史物語は次に〈箱舟の建造〉についてしるしている。原初史物語はそこにおいても重要なメッセージを託しているようである。ここも丁寧に読んでみよう。

 

 

2 〈箱舟の建造〉

 

6章14~16には、神よる〈箱舟の建造〉の命令がしるされている。

 

ここについても月本昭男『創世記Ⅰ』の解説から教示されるところ多い。ここで、それを参照しつつ、このところにあるメッセージを聴き出す試みをしてみよう。

 

6章14

「あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。」

 

「箱舟」と訳された原語の〈テバー〉は、出エジプト記2章にしるされた幼児のモーセが入れられた「籠」のときに用いられ、旧約聖書においてこの二例のみである。

 

ここで、わたくしの推測を述べると、原初史物語の作者が創世記六章の「箱舟」を言い表す語として、幼児のモーセが入れられた〈テバー〉を用いたということには意味が込められていたのではないかとおもう。

 

ここで幼児のモーセが「籠」に入れられた事情についてみておく。モーセが誕生したエジプトにおいてヘブライ人の男の子は皆殺すようにとエジプト王朝から命令が出ていた。モーセの両親はそれをするに忍びず、モーセの命を生かせるだけ生かそうと〈テバー〉に入れ、ナイル川の茂みに隠した。そこにエジプト王朝のファラオの娘が水浴びに来、モーセを見、不憫に思い、家に連れて帰る。かくして、モーセの命は断たれることなく、生かされることとなる。ここでこう言ってもよいかとおもうが、モーセは奇しき運命に生きる人となった。

 

いま〈奇しき運命〉という言い方をした。その意味するところは、モーセは〈神の見えざる手〉の中に置かれたということ。ここでわたくしの推測を言うとこうなる。原初史物語は、幼児モーセの命を絶体絶命の瀬戸際で助けた〈神の見えざる手〉の器となった〈テバー〉、それは「箱舟」についても言い得ると考えた。そこで、原初史物語は「箱舟」を言い表す語を〈テバー〉にした。ここはこういう推測が成り立つのではないかとおもう。

 

旧約聖書の詩編には〈逃げ場所〉を求める人たちの詩歌がある。たとえば、

 

詩編46

「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。」

 

〈神はわたしたちの逃げ場所〉と詠うこの人は、半端でない苦難に陥っていた人であったのはないか。この人は神を逃げ場所にするほか生きる道のない人生にあった人ではないか。人生において帰る場所がない、戻る場所がない、今の所に居続けることもできない、いわば難民の状況、そこに置かれることがある。その者には〈逃げ場所〉が必要なのである。

 

わたくしの推測を言うと、原初史物語は神がノアに建造を命じた「箱舟」は幼児のモーセが入れられその命が保全されたあの〈テバー〉のように、〈神の見えざる手〉の器であるということ、「箱舟」は難民状況を強いられた者たちに与えられた〈逃げ場所〉があるということ、そう考えていたのではないかとおもう。

 

ところで、原初史物語は興味深いことに、ここで〈箱舟の寸法〉についてしるしている。ここにもメッセージがこめられているようである。ここも丁寧に読むことにしたい。

 

 

3 〈箱舟の寸法〉

 

原初史物語は6章15~16において、神が「箱舟」の寸法を指示したとしるしている。これについても月本昭男『創世記Ⅰ』に教示されるところ多い。ここで、それを参照にしつつ、ここのところを読み解く試みをしてみたい。

 

箱舟の寸法は、長さ300アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマ。1アンマを45センチで換算すれば、長さ135メートル、幅22・5メートル、高さ13・5メートルであり、舟としては極めて細長い不自然な形となる。この箱舟の寸法は何に由来するのであろうか。

 

旧約聖書において建造物の寸法が掲げられる代表例は三つある。「幕屋」(出エジプト記25~26章)、ソロモン建立の「エルサレム神殿と宮殿」(列王記上6~7章)、エゼキエルが描く「神殿」(エゼキエル書40~43章)である。

 

「幕屋」の場合、奥行100アンマ、幅50アンマであり、その幅は「箱舟」のそれと対応する。

 

ソロモンの「エルサレム神殿」の場合、奥行60アンマ、幅20アンマ、高さ30アンマであり、高さが「箱舟」に対応する。ソロモンの「宮殿」の場合、奥行100アンマ、幅50アンマ、高さ30アンマであり、幅と高さが「箱舟」に対応する。

 

エゼキエルが見た幻の中に登場する「神殿」の場合、おそらく「幕屋」および「ソロモンの神殿と宮殿」を前提にしたうえでのことと推定されるが、次のようになっている。本殿は奥行100アンマ、幅50アンマである。この奥行に前庭を加え、本殿と他の建造物などの空間を加えると、奥行は全体で300アンマとなる。これは「箱舟」の長さと等しくなる。

 

寸法からみたとき、「箱舟」とエゼキエルの「神殿」とが一致している。おそらく、この寸法の一致は偶然ではない。ここには意味が込められていたのではないかとおもわれる。

 

このように「箱舟」の寸法とエゼキエルの「神殿」の寸法を同じにするこの原初史物語は原初史物語の編集者の作業によって成ったものとおもわれるのだが、ここで考えたいことは、このように寸法を同じにしたことに込めた意図についてである。ここでわたくしの推測を言うと、その意図は「箱舟」にエゼキエルの「神殿」を暗示させそれを想起させた、そういうことであったのではないかとおもわれる。

 

その預言者エゼキエルが幻の中で見た「神殿」であるが、これは神がこの預言者に〈希望〉を示した、そう言ってよいものであった。その事情を見ておくと、預言者エゼキエルはユダ王国の壊滅、エルサレム神殿の崩壊に直面、バビロンに連行された捕囚民の一人であった。彼はユダ王国の壊滅、エルサレム神殿の崩壊という全てを失う中で、新たに「神殿」が与えられるという幻を見る。エゼキエルが幻の中で見た「神殿」は、神がこの預言者に〈希望〉を示した、そう言ってよいものであった。

 

原初史物語は「箱舟」の寸法の記述をする創世記6章14~16の前に13で〈全地の壊滅〉について述べている。また、寸法の記述の後の17で〈全地の壊滅〉の予告を述べている。つまり〈箱舟の寸法〉のことは〈全地の壊滅〉をふまえて述べられている。

 

このことからして言い得ることは、原初史物語は〈全地の壊滅〉の状況が差し迫る中で、エゼキエルが幻の中で見た〈希望〉の「神殿」を「箱舟」において暗示させた、ここはそういうことを物語っているところではないかとおもう。

 

原初史物語が「箱舟」の寸法を具体的に記述したのはなにゆえであったか。その意図は「箱舟」においてエゼキエルが預言した〈新たな神殿〉を想起させ、〈全地の壊滅〉の状況が迫る中にあってなお神の為さることに希望を置くこと、そこにあった。ここはそういうことを物語っているところではないかとおもう。

 

さて、原初史物語はこの後、〈契約〉のことについて語る。ここに語られている〈契約〉において何が述べられているか。おそらく極めて重要なことが言われているのではないか。ここを丁寧に読むことにしよう。

 

 

4 〈契約〉

 

6章18

「わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。」

 

ここで〈契約〉が語られる。ここで〈契約〉は〈箱舟に入りなさい〉との神からの命令から始まる。これはこの〈契約〉が〈生き残る〉ことを実行することを内容とするものであることを示していると言ってよいだろう。

 

その〈生き残る〉ものについてであるが、それは神の創造した生きとし生ける全てのものである。6章18では〈人間〉がそれであるが、19~20では〈生きとし生ける全てのもの〉がそれであると述べられている。

 

6章19~20

「また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの血を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。」

 

ここで留意されるべきことは〈生き残る〉のは人間だけでなく、神の創造した生きとし生けるもの全てであるということである。ここには人間だけが生き残るとする考えはない。ここにあるのは人間は人間以外の生きとし生けるもの全てと共存共生するものであるという考えである。

 

ここでとくに注意されなければならないことは18の冒頭にしるされているのだが、ここで語る神は〈わたしは〉と語る神である。旧約聖書において神が〈わたしは〉と一人称単数で語るとき、それは神が決定的なことを語るときである。神が一人称単数で〈わたしは〉と語るこの〈契約〉の場面は決定的なことが語られる場面であると言ってよいとおもう。

 

では、何が決定的なこととして語られているか。それは神が創造した生きとし生けるものすべての命の〈保全〉と〈継続〉、これが神の示した決定的な意思であるということ。ここはそれが語られていると言ってよいとおもう。

 

ところで、この〈契約〉において神はノアに一つの具体的なことをすることを求める。

 

6章21

「食べられるも物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」

 

神がノアに命じたことは〈箱舟に入る〉ことであったが、それだけではなく、いま一つあった。それは〈食べ物となるものを集め、箱舟に運び入れること〉であった。その食べ物は、ノアたち人間のためだけでなく、箱舟の中に入る生きとし生けるものすべてのための食べ物であった。ここで神がノアに命じたいま一つのこのことは極めて重要なことであるとおもわれる。

 

原初史物語は創世記一章の記述の結びで、人間は〈神の似姿〉として造られたと語り、その意味するところは人間には神が創造された生きとし生けるもの全てのために〈食べ物〉がゆきわたるように調整することの委託がなされているということ。原初史物語は一章においてそう語った。

 

原初史物語は創世記六章でその線を引き継いでいると言ってよい。原初史物語は神がノアと契約を立てるとき、神からノアに対して委託された使命も〈食べ物についての配慮〉であると語る。

 

そうすると、原初史物語はここでいまいちど、人間とは生きとし生けるもの全てと共存共生するために〈食べ物〉の調整をする役割にある、それを語ったことになる。ここはそう解してよいとおもわれる。

 

ここで一つ留意しておきたい。それはノアが生きとし生けるもの全てのために食べ物を調達し調整する役割にあるが、これはノアと他の生きとし生けるものとの関係が支配するものと支配されるものの関係になるわけではないということである。ここでノアに委託されたことは〈食べ物〉の調達調整ということだけであって、支配することがノアに委託されたことではないということ、これをここで留意しておきたい。

 

原初史物語はここでこう証言する、〈ノアは神の命じるところに従った〉。

 

6章22

「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。」

 

ノアは神の命じるところに従って「箱舟」を建造した。それはしかし、洪水が起る前に、である。ノアが「箱舟」の建造を始めたとき、世間の人々はノアのこの行為を物笑いの種にしたかもしれない。しかし、ノアは神の命じるところに応じ、〈危機〉を先取りし、〈危機〉に備えた。

 

これは預言者エレミヤの姿と重なる。エレミヤはユダ王国の存続に危機が来ているのに平安を謳歌している人々に向かって偽りの平安に埋没していてはいけないと語った。人々はこのエレミヤに対し、この国には「主の神殿」が存在するゆえ平安は約束され平安は揺らぐことはないと主張した。エレミヤはこの人々に対し、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」と語った。

 

エレミヤは〈主の神殿〉が存在するから平安は保障されるとするその考えは人を偽りの平安に埋没させるものでしかないと語った。エレミヤは人々に向かって目を覚まし危機に向き合えと語り続けた。このエレミヤの姿はノアが人々の

物笑いの中で箱舟を建造した姿と重なる。

 

 

このあたりで創世記6章にしるされた物語を読み終えようとおもうが、そうするに当たって、わたくしの推測をいま一つ述べておきたい。

 

原初史物語は「箱舟」にエゼキエルが幻の中でみた「神殿」を暗示させそれを想起させようとした、と解してよいとすれば、原初史物語は将来与えられることを望む〈神殿〉は創世記6章において描かれた〈箱舟〉のように、生きとし生けるもの全ての命の保全と存続のために役に立つ存在であるということ、〈神殿〉とは〈生きとし生けるもの全ての命の保全と存続のためにあるもの〉、このように考えていたのではないか。これがわたくしの推測するところである。

 


 

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