「戦後70年談話」

2015年09月06日 10:30

 

「戦後70年談話」が発表された。そこに次の文章がある、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」

私はここに「談話」を出した動機があると思った。「談話」は「事を済ませるために」出されたのではないか。

私は苦い経験を思い起こした。それはこういう経験である。

事件が起こった。その事件で被害者と加害者が生じる。被害者は傷をつけた加害者にその旨を言う。加害者は言う「そのつもりはなかった」。被害者はその答えで納得しない。そこで加害者はこう考えるようになる、ここは加害を認めよう、謝罪をせよという要求に応じよう、それで事がすむのであれば。

この事件に当たっている者たちの間で、この先に進むのは困難と判断されたとき、次の仕方で事が収められる、すなわち、事実の経過を記した文書が確定され、加害者の提出する謝罪文を被害者が受け入れる、そういうことで事が収められる。

加害者の謝罪文には被害者が求めている謝罪の文言が全て盛られているが、それは「事を済ませるために」なされたものであって心からのものではない。が、このあたりで諸般の事情により幕引きとなるほかない。この苦い経験を私は幾度かしてきた。

ここで「談話」読後の感想を率直に言うと、この「談話」はこの国の戦争加害に関し世論の多くが求める文言を文言としては全て盛り込んでいるが、そうすることで「事を済ませようとしている」ということではないのか。

戦争犯罪に関し事を進めようとするなら「事を済ませる」という発想を捨て、むしろ「事を記憶し謝罪し続ける」のでなければならないのではないか。 

この点で参考になるのはドイツ国のしていることである。ドイツ国はユダヤ人600万人を抹殺したが、この戦争加害の犯罪を忘れないため首都ベルリンの中央にユダヤ人墓地を設けた。ドイツ国は「事を済ませる」の発想を捨て「事を記憶し謝罪し続ける」ことを、子子孫孫にわたってしてゆこうとしている。

この国日本はこのドイツの事例を参考にする、これが求められているのではないか。