「命の保全」

2019年05月21日 16:53

原初史物語は2章4後半から3三章19にしるされているところで一つの単元になっているようで、物語作者が言おうとしていることの一つは述べ終わっているようにおもわれる。これに続く3章20~24にしるされている物語は伝承されていた物語をここに加えたという感じがする。ここではこの物語を採用し加えた原初史物語の編集者の意図を推測してみたいとおもう。

 

わたくしの推測するところ、原初史物語の編集者が3章20~24の物語を加えた意図の一つは次のところにあるとおもわれる。

 

3章20

「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。」

 

物語によると、女に〈エバ〉という名、すなわち〈命〉という名が付けられた。〈女〉に〈命〉という名が付けられた理由は「彼女がすべて命あるものの母となった」ことにある。物語はこのように〈女〉を描いているが、わたくしの推測では、ここに原初史物語の編集者が3章20~24の物語を採用した意図があったとおもわれる。

 

聖書には神の恵みの出現形態として次の二つがあるとしていると言ってよいとおもう。一つは〈救済の出来事〉として出現するという形態、いま一つは〈生命の保全〉として出現するという形態である。わたくしの推測では、原初史物語の編集者は3章20~24の物語を神の恵みの出現形態の一つである〈生命の保全〉を示す物語としてみた、ということではないかとおもう。

 

〈生命の保全〉には〈生命の新たな誕生〉と〈生命の保持〉が含まれる。〈生命〉には終わりがあるゆえ、〈生命の保全〉には〈生命の新たな誕生〉と〈生命の保持〉が含まれる。3章20~24の物語の冒頭に〈生命の新たな誕生〉が述べられている。わたくしの推測では、原初史物語の編集者は〈生命の新たな誕生〉に言及するこの物語に神の恵みの出現形態の一つである〈生命の保全〉が示されているとみたのではないか。

 

ここに採用された3章20~24の物語の冒頭にしるされているのは、〈新しい生命の誕生〉を担うのは〈女〉、〈女〉は〈生命の新たな誕生〉を担う母である。原初史物語の編集者はこのように述べるこの物語を神の恵みの出現形態の一つの〈生命の保全〉を示す物語としてみた、と、わたくしは推測する。

 

ここで、わたくしの推測をさらに言うと、この物語がしるされ語られた状況は〈女〉が不当におとしめられ抑圧される日常を強いられている状況であったのではないかということである。この物語はその状況の中で、その状況をふまえしるされたのではないか。

 

そうだとすれば、この物語から次のことを読むとすれば間違いとなる。すなわち、〈女〉という存在は〈生命の新たな誕生〉を担う母となるべき存在である、こういったことをこの物語から読むとすれば間違いを犯すことになる。この物語から〈女は母となるべき存在である〉の律法を読むとすれば間違いを犯すことになる。

 

わたくしの推測では、この物語は〈女〉が不当におとしめられ抑圧される日常の状況をふまえ、この状況を放置している社会に対し、〈女〉は神の恵みの出現形態の一つである〈生命の保全〉に含まれる〈生命の新しい誕生〉を担う母である、このことを宣言するものであった。わたくしの推測では、原初史物語の作者はここにおいても社会に対する状況批判をおこなっているのではないか。それをあからさまに展開すると、物語作者の生命が奪われかねないゆえ、物語による隠喩の方法によった。

 

 

さて、原初史物語の編集者がこの物語を加えた意図は次のことにもあったとおもわれる。

 

3章22

「善悪を知る者となった(彼らは)永遠に生きる者となるおそれがある。」

 

ここには〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べた者たちは〈永遠に生きるおそれ〉があると述べられており、これがこの後の三章二三にしるされている主なる神がこの者たちを〈エデンの園から追い出した〉理由であると述べられている。つまり、〈エデンの園からの追放〉の理由は〈永遠に生きるおそれ〉があるためであると述べられている。ここで考えたいことは〈永遠に生きるおそれ〉ということについてである。

 

〈善と悪を知る知識の木〉の隠喩によって言われているのはダビデ・ソロモンの国家である。この国家は〈永遠に生きる〉ことを願っていた。この国家は永遠不滅であると宣言していたのであろう。ここには人間の力の永遠化、それが起こっていると言ってよいだろう。原初史物語の編集者がここで編入させた物語は、永遠不滅を宣言する国家は主なる神によって〈エデンの園〉から追放された存在であると語っている。

 

わたくしの推測はこうなる。原初史物語の編集者がこのように語っている物語を編入させたのは、永遠不滅を宣言する国家は追放されなければならない、なぜなら、この国家は極めて危険な存在であるからである、これを言うためである、と、わたくしにはおもわれる。

 

原初史物語の結びに置かれている物語は〈バベルの塔の物語〉と称されている創世記11章にある物語であるが、その物語において描かれていることはこの創世記3章22と23においてしるされていることと内容のうえで重なっていると言えそうだ。

 

創世記11章の物語に描かれていることはこうである。人々は〈町〉を建てる。その建材には〈レンガ〉〈アスファルト〉などが用いられたとある。ここでこのような建材について言及するのは〈町〉を恒久的なものにしようとすることであったということを物語る。〈町〉の中央に〈天にまで届く高い塔〉が建立された。この〈高い塔〉も恒久的なものとして建立されたであろう。ここに描かれているのは国家の建造であるが、ここに建造される国家は永遠不滅のもの、それが目指されていた。

 

この創世記11章の物語は、この国家の建造が進まないように主なる神が図ったとしている。つまり、創世記11章の〈バベルの塔の物語〉と称されている物語は、永遠不滅を志向する国家に対し明確な否を主張する主なる神の意思を告げる物語である。

 

原初史物語の編集者が編入した創世記3章22と23の物語は永遠不滅を宣言する国家は〈エデンの園〉から追放されたとする物語であるが、内容的には原初史物語の結びに置かれている創世記11章の物語と重なっていると言ってよい。原初史物語の編集者は永遠不滅を宣言する国家が極めて危険な存在であることを認識していること、この国家に対しての否は明確であるほどよいと考えていた、と、わたくしは推測している。

 

 

さて、原初史物語の編集者が創世記3章20~24にしるされている物語を採用し編入した意図として次のこともあるのではないかとおもわれる。

 

3章23

「主なる神はエデンの園から追い出し、(その者たちに)土を耕させることにされた。」

 

ここで述べられていることは、〈エデンの園〉を追放された者はその外においても〈土を耕し〉〈土に仕える〉存在であるということ。ここでもわたくしの推測を言うと、原初史物語の編集者がこの物語を採用し編入したのはこの物語には人間とは〈エデンの園〉の外にあっても〈土に仕える〉存在であるということ、これが語られているからであるとおもう。

 

原初史物語がこの直ぐ後に展開している創世記四章の物語では、人は「地上をさまよい、さすらう者となる」ということ、が描かれている。この〈地上をさまよい、さすらう〉は〈土から離れる〉ことを言っている。すなわち、〈土に仕えることをしなくなる〉ということである。創世記六章の物語では〈土に仕えることをしなくなった〉者たちのことが原因で〈土の産む食べ物〉の全てが破滅するということが描かれる。

 

わたくしの推測では、原初史物語の編集者が創世記3章20~24の物語を採用し編入した意図の一つは、この物語において人間とは〈エデンの園〉の外にあっても〈土に仕える〉存在であると描かれている、こう描写するこの物語をこの後の物語の主題〈土に仕える〉の展開のための伏線としたということであったのではないかとおもう。

 

この原初史物語の主題〈土に仕える〉、これは人間の根源に関わる主題である。わたくしは創世記の原初史物語の読みをこの観点からさらに読み進めてゆこうと考えている。