「創世記四章―(1)」

2019年06月20日 09:08

1 〈カインとアベル〉

 

創世記四章は兄カインが弟アベルを殺す物語から始まる。まずそこから丁寧に読むことにしたい。

 

原初史物語はカインがアベルを殺すきっかけとなったことからしるしている。そこには次のようにしるされている。

 

4章4後半~5

「主(ヤハウエ)はアベルとその献げ物には目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」

 

原初史物語はカインがアベルを殺すきっかけとなったのは神ヤハウエがアベルを良しとしカインを良しとしなかったゆえであるとしている。カインはこのことのゆえに〈激しく怒った〉。カインはこのことのゆえにアベルを抹消抹殺するに至る。

 

原初史物語はこの後こうしるす。

 

4章6~7前半

「主(ヤハウエ)はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もし正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。』」

 

ここは丁寧に読んでみよう。

 

ここにしるされている神ヤハウエの言葉はカインに対し〈どうして怒るのか〉という問いである。この問いの〈どうして怒るのか〉は怒る根拠があるのかという問いである。ここで神ヤハウエはカインに怒る根拠を挙げるよう求める。

 

ここで神ヤハウエはカインに対し〈どうして顔を伏せるのか〉と問う。この問いはカインが怒る根拠を挙げて抗議することをしないことへの問いかけである。ここでカインは〈顔を伏せた〉。この表現はカインがそれをしなかったことを示すものである。

 

ここで神ヤハウエはカインに対し〈もし正しいのなら、顔を上げられるはずではないか〉と問うた。この問いはカインが怒る根拠を挙げて抗議することを求められそれをしなかったことを示すものである。

 

ここはこういうことがしるされているのだが、そうすると、カインが神ヤハウエの自分に対する否定評価に抗議することができなかったのはカインの側に問題があったということ、それがここで言われていることになる。

 

ここで、カインの側に問題があったその問題について、わたくしの推測を言うと、カインはアベルを抑圧していたという事情、それがあったのではないかとおもわれる。神ヤハウエがカインに対する否定評価をした、それはそのゆえであったのではないかとおもわれる。この点は後でカインとアベルの社会的立場について言及する中で明らかにしようとおもう。

 

原初史物語はその後、神ヤハウエはカインに対し次のように言われたと語る。

 

4章7後半

「正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、あなたを求める。あなたは  それを支配せねばならない。」

 

ここで神ヤハウエはカインに対し「罪は戸口で待ち伏せており、あなたを求める。あなたはそれを支配せねばならない」と言われた。ここで、わたくしの推測を述べると、カインを襲う罪、それは〈ねたみの感情〉のことを言っているのではないかとおもわれる。わたくしの推測をもう少し丁寧に言うと、

 

カインは神がアベルを良しとし自分を良しとしないこのことを知ったとき、自分の中に激しい〈ねたみの感情〉がこみあげてくるのを止めることができなかった。カインは自分に生じた〈ねたみの感情〉からくる激しい怒りに翻弄され、これを制御できない。カインはその〈ねたみの感情〉からくる激しい怒りの感情をアベルに向けた。

 

4章8

「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。」

 

兄カインは弟アベルを殺した。これはカインが自分の中に生じた〈ねたみの感情〉に屈してしまったことを示していると、わたくしにはおもわれる。

 

罪の力は人間の〈ねたみの感情〉の中にその活動の場を持つ。これはいかなる人間についても言い得る。人は自分の中に生じる〈ねたみの感情〉を制御するという仕方で罪の力と格闘する。これはいかなる人においても言い得る。このことはカインにだけ関わることではなく、全ての人間に関わる問題である。

 

カインはこの全ての人間に関わる問題、すなわち自分の中に生じた〈ねたみの感情〉の制御という問題に襲われた。カインはその制御ができず、〈ねたみの感情〉の中で活動する罪の力に屈してしまった。

 

原初史物語がここで示していることは、人間が〈ねたみの感情〉に翻弄されると、その〈ねたみの感情〉はそれを向ける相手をその存在の全てを抹消し去るところまでゆくということ。この原初史物語はそのように語っている、と、わたくしにはおもわれる。

 

ここで、物語の展開をさらに追うと、

 

4章9

「神ヤハウエはカインに問う、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。カインは答えた。『知りません。わたしは弟の番人でしょうか。』」

 

カインは知っているのに知らないと言った。カインは知らないと言ってすませるとおもったのだろうか。カインは神ヤハウエに対し隠し通せるとおもったのであろうか。あるいは、カインはこの場では知らないと言うほかなかったのか。原初史物語は正直になることができない人間の姿をここに描き出している。わたくしにはそうおもわれる。

 

原初史物語は初めから終わりまで〈人間の問題〉と取り組んでいるが、ここは〈罪の力に屈した人間の問題〉と取り組んでいると言ってよいとおもう。そして、ここは〈罪の力に屈して為した自分の罪の行為を隠蔽する人間の問題〉、それと取り組んでいると言ってよいとおもう。

 

ここでわたくしの推測をさらに述べると、原初史物語は罪の力に屈して為した自分の行為を隠蔽する人間の問題それを〈国家の行為の中に見ていた〉ということではないかとおもう。国家は罪の力に屈して為した自分の行為を隠蔽することを繰り返しおこなう傾向にある。原初史物語はここでそれを暗に示したということであったのではないか。

 

 

2 〈歴史の事情〉

 

わたくしはこれから先、この創世記四章に描かれている物語の主題を探すことにするが、そうするに当たってここに描かれている物語の社会的背景とその歴史事情、そこからここの物語の主題を探ってみようとおもう。

 

わたくしはこれまで、ここに登場する兄のカインは〈農耕者〉、弟のアベルは〈牧羊者〉であると解してきた。わたくしがそう解したのは、両者の祭儀のときのささげものからである。

 

4章3~4

〈カインは土の実りを献げ物として持って来た〉

〈アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た〉

 

わたくしがここでも教示を受けるのは、月本昭男『創世記Ⅰ』である。そこにこう述べられている。

 

牧羊と農耕とは古代西アジアにおける基本的な二つの生活様式であった。 沃地の定住農耕生活者と荒野の牧羊生活者とは、常に対立していたわけではない。むしろ、両者の間には交換経済を中心にしたある相互関係が成り立っていた。但し、古代西アジア文明は、基本的には、農耕による余剰生産を基礎に都市文明を築き上げ、権力機構を備えた都市国家、更には領土国家を発達させたのであり、牧羊民はそういった文明社会の周縁的存在であった。従って、農耕と牧羊との相互関係において、優位にあったのは常に前者であり、後者の生活基盤はより不安定であった。この物語で、農夫カインが兄、牧夫アベルが弟とされるのも偶然ではない。

 

わたくしはこれまで、この物語に登場するカインを〈農耕者〉、アベルを〈牧羊者〉と解してきたが、月本昭男『創世記Ⅰ』の解説から教示されここはもっと精確な理解と表現をする必要があると知った。

 

創世記四章に登場しているカインは精確に言うと〈領土国家として権力機構を備えた都市国家を表す者〉。この領土国家としての権力機構を備えた都市国家は農耕による余剰生産を基礎に成り立っていたので、カインを〈農耕者〉と表現するとき誤りであるわけではないが、カインは精確には農耕による余剰生産を基礎に成り立つ都市国家の者ということである。 

 

ここでアベルについても精確に言い表しておきたい。アベルは精確に言うと、〈領土国家としての権力機構を備えた都市国家の周縁にいる者あるいはその外にいる者〉ということである。この者たちは牧羊によって生計を立てていた。アベルを〈牧羊者〉と表現するのは適切であるが、精確にはアベルは領土国家としての権力機構を備えた都市国家の周縁にいる者あるいはその外にいる者ということである。

 

そうすると、創世記4章の冒頭にしるされている殺人物語は体制の支配者側にいる者たちが体制の周縁にいる被支配者たちを抑圧し抹殺した物語であると、そう言ってよいのではないかとおもわれる。

 

創世記四章にしるされている殺人物語は創世記3章までの物語文脈の中に置いて読まなければならない。そうして読むと次のことが明瞭になる。

 

原初史物語の作者は地上に生じる問題の起因は〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたことにあると語るのであるが、この創世記4章の殺人物語においてもその文脈の中で語っている。すなわち〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるとこのような殺人が生じる、権力者が非権力者・無権力者を抹殺するということが生じる。

 

〈善と悪を知る知識の木〉は隠喩である。この隠喩の意味するところは繰り返し述べてきたが、〈善と悪を知っている〉とは絶対的卓越した能力を保持しているということを意味する。権力者は自分がその保持者であると思っている。それは思い違いをしているにすぎないのだが、権力者はその思い違いの果てに非権力者・無権力者を抑圧し抹殺するに至る。原初史物語はカインによるアベルの抹殺、これはまさにその事例にほかならないと語った。

 

わたくしはさきほど、カインには神ヤハウエから自分に向けられた〈良しとせず〉について神ヤハウエに不当であるとして抗議することができなかった、そこには理由があったのではないかと述べたが、その理由は以上のところから明らかになったのではないかとおもう。カインはアベルを抑圧していた、神ヤハウエはこのことを良くないとみていた、カインはそれゆえ神ヤハウエから自分に向けられた〈良しとせず〉について、それに抗議することができなかった。わたくしはここをこう読む。

 

 

3 〈土〉

 

さて、原初史物語は兄のカインが弟アベルを殺したことによって〈事〉が起ったと語る。その起った事というのは〈土が食べ物を産まないという事〉である。それをしるす本文を掲げると、

 

4章11~12

「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。」

 

この〈土が食べ物を産まない〉に類する物語は地上世界に多く存在する。それらの物語の多くは土が食べ物を産み出さない状況となったとき、〈人身御供〉がおこなわれるとする物語である。

 

たとえば降雨がなく旱魃によって地が干上がり土が食べ物を産み出さず飢餓状況が生じたとき、それは地の神の怒りによって生じていると信じられ、地の神の怒りを鎮めるために〈人身御供〉がおこなわれる。

 

今日このような形の〈人身御供〉はない。しかし、〈人身御供〉は今日形を変えて存在している。今日〈人身御供〉は〈犠牲の論理〉の中で存在している。〈犠牲の論理〉とは多くが救済されるために少数が犠牲になることはやむをえないとする論理のことだが、今日この〈犠牲の論理〉によって犠牲を強いられた〈地〉と〈人〉が存在し、〈人身御供〉がおこなわれていると言わなければならない。

 

新約聖書のヨハネ福音書に〈犠牲の論理〉が登場している。大祭司カヤパはナ

ザレのイエスを抹殺するため〈犠牲の論理〉を使う。

 

ヨハネ福音書11章50

「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたにとって好都合だとは考えないのか。」

 

ここには〈人身御供〉の必要とその正当さを主張する権力者の姿がある。ナザレのイエスの抹殺は〈人身御供〉であった。〈人身御供〉を論理化した〈犠牲の論理〉によってイエスの抹殺はおこなわれた。

 

原初史物語の作者が創世記四章の物語において語っていることはこの〈人身御供〉〈犠牲の論理〉とは逆のことである。すなわち、人の命が奪われ人の命の血が流されるとき〈土は食べ物を産み出さない〉。ここで言われていることが何であるか明瞭である。〈土〉は人の命を奪う者に対し抵抗する。〈土〉は主張する、〈人身御供〉はあってはならない、〈犠牲の論理〉はあってはならない。これが創世記の原初史物語の作者が提示する〈土の語る事〉である。

 

創世記四章にしるされている物語は世の人の考えるところを逆転させている。これはまことに注目に値する物語。この物語にわたしたちの注目と留意がもっとあってよいのではないか。

 

 

4 〈国家〉

 

さて、物語によると神ヤハウエは人の命を奪ったカインに対しこう言われた。

 

4章12

「あなたは地上をさまよい、さすらう者となる。」

 

この「地上をさまよい、さすらう者となる」は〈土から離れる〉を意味すると解される。

 

原初史物語の作者はここでカインは〈土から離れる者〉になったとしるす。そうしるした後カインについてこうしるす、彼は「町を建てた」(四章一七)。

 

月本昭男『創世記Ⅰ』は創世記4章の〈カインが「町」を建造した〉の記述の背景となっている歴史状況について次のように述べている。 

 

カナンの諸都市を徐々に占領し、国家を成立させたイスラエル」において、とくにソロモン時代、その支配の論理のもとに、都市が次々と再建もしくは新設されていった。

 

そうすると、カインが建てた「町」とは古代オリエントにおいては〈領土として権力機構を備えた都市国家〉のことである。原初史物語はこの〈領土として権力機構を備えた都市国家〉は〈土から離れた者〉が建造したと語る。

 

ここで考えたいことがある。それは〈国家という存在につて〉である。

 

原初史物語が〈権力機構を備えた国家〉に対し否定的にみていることは確かであるが、しかし、〈国家〉という存在そのものについてどうみていたのか、ここからは読み取れない。そこでわたくしはここで、国家と対峙した二人の預言者を挙げ比べてみることにする。

 

その預言者の二人とはイザヤとエレミヤである。この二人の預言者は国家と対峙した。いずれの預言者も国家と対峙したが、この二人の預言者は国家と対峙した後に国家というものについて出した結論において対照的な相異をみせている。国家をどうみるかの問題を考えるうえでこの二人を挙げて比較することは適切な方法の一つであるとおもう。

 

まずイザヤからみてみよう。イザヤ書11章にこうしるされている。

 

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

その根からひとつの若枝が育ち

その上に主の霊がとどまる

知恵と識別の霊

思慮と勇気の霊

主を知り畏れ敬う霊

彼は主を畏れ敬う霊に満たされる

目に見えるところによって裁きを行わず

耳にするところによって弁護することはない

弱い人のために正当な裁きを行い

この地の貧しい人を公平に弁護する

 

このイザヤの言葉は将来において到来するメシア(救済者)についての預言として読んでよいだろう。イザヤはここでメシアは「エッサイの株から」出ると詠う。「エッサイ」とはダビデ王の父の名である。つまり、イザヤによればメシアはダビデ王の末裔から出るということ。イザヤはここで将来において到来するメシアは理想的な王であると詠う。

 

わたくしはここから次のことが言い得るのではないかと考える。イザヤは理想的な王が到来するとき救済は実現すると信じていた。ということはイザヤは国家に救済の役割があるとしていたということではないか。

 

ではエレミヤの場合はどうか。エレミヤに「新しい契約」と呼ばれる預言がある(エレミヤ書31章)。それをここに掲げると、

 

見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。

来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれであると主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の内に授け、彼らの心にそれを記す。

わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからであると、主は言われる。    

 

このエレミヤの預言は将来において到来する〈救済〉について言っているとしてよいだろう。エレミヤは預言する、将来において到来する〈救済〉においては新たに神の言葉が授けられる、その新たな神の言葉は神が一人一人の内に授けることによって与えられる。

 

そうするとエレミヤが預言する将来において到来する〈救済〉においては、神の言葉を授ける役割を担う者は神のみであって、ほかにはこれを担う者は存在しない。つまり、メシアなるものは存在しないということである。わたくしはここから推察するのだが、エレミヤは救済を国家の担うところであるとは考えていなかったということではないか。

 

ここで端的な言い方をすると、国家が救済を担うとする思想はイザヤにあり、これに対し国家が救済を担うとする思想はエレミヤにはない。二人が国家と対峙した後に出した国家についての結論はこのように全く異っている。

 

わたくしの推察するところ、〈国家〉の存在の意義についての議論は聖書において未決の課題であるということではないか、とおもわれる。