「その後のこと」

2019年05月21日 16:52

原初史物語の作者は〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べた人間の〈その後のこと〉について語る。人間が〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたということは人間の生き方を選択したということであった。どういう生き方を選択したのか。

 

人が〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたということは、確認してきたように、これはこの世の権力を掌握している者に最高の賛辞を呈するということであるが、それは何のためであるかと言うと、この者に〈依存する〉ためであった。人はこれを自分の生き方として選択した。

 

人がこの生き方を選択した理由は、自分が〈土で造られている〉、すなわち自分が〈もろくよわい〉者である、人はこれを〈不安〉の要因としてとらえたがゆえにおこなった選択であった。人はそのゆえにこの世の権力を掌握している者に最高の賛辞を呈し、この者に依存した。人はこれを自分の生き方として選択した。

 

ここで何が問題であるかを考えておきたい。

 

人は〈土で造られている〉すなわち〈もろくよわい〉、これを〈不安〉の要因としてとらえたわけだが、このとき人はこの〈もろくよわい〉を不安の要因とは別な方向でとらえるという考えをまったく持っていなかった。その〈別な方向〉とはこういうことである。すなわち、この〈土で造られている〉すなわち〈もろくよわい〉ということは不安の要因であるが、むしろそうであるがゆえに〈相互に依存する〉を生み出す。ただしこの〈相互に依存する〉の〈相互〉は〈上下の関係〉の相互ではなく、基本的原則的に〈対等の関係〉の相互である。

 

人は〈土で造られている〉すなわち〈もろくよわい〉存在であるゆえ〈依存〉が必須であるとした、それは人の自己理解として適切である。人は〈土で造られている〉すなわち〈もろくよわい〉存在として造られている、これは人が依存して生きるよう造られているということである。人が依存をする、それが間違いであるのではない。〈してはいけないこと〉は権力に依存する社会を造ることである。人が〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べる、すなわちこの世の権力を掌握している者に最高の賛辞を呈してこの者に依存した、これは〈してはいけないこと〉であったと言わなければならない。

 

 

原初史物語の作者は〈してはいけないこと〉をした人間を描いたが、その後に、その人間を〈探し求める〉神を描く。そこのところも丁寧に読んでみよう。

 

3章8

「その日、風の吹くころ、主(ヤハウェ)なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、」

 

ここに「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とあるが、この描写は〈ヤハウェ〉の名を持つ神が〈してはいけないこと〉をした人間を探し求めたことを描くものと解してよいだろう。その後に「アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると」とあるが、この描写はヤハウェの名を持つ神に対し〈合わす顔〉がない人間を描いたと解してよいだろう。

 

人間は〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べる、それを自分たちだけの判断で自主的に実行した。人間は人間の自主性を謳歌する時代と社会の中で、その自主性の持つ快適さに酔ってしまい、〈神に問う〉ということをしなかった。その結果、この世の権力を掌握している者に最高の賛辞を呈し、この者に依存する人間となった。結果、〈土で造られていることを恥じる〉〈もろくよわいことを恥じる〉人間となった。結果、〈もろくよわい〉がゆえに〈対等の相互依存の関係〉をつくることを放棄する人間となってしまった。それゆえ、人間はヤハウェの名の神に対し〈合わす顔〉がない。

原初史物語の作者は〈神から逃避する人間〉を探す神ヤハウェの姿を描く。

 

3章9

「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』」

 

ここには〈神から逃避する人間に対する神の呼びかけ〉がしるされているが、このことについて考えておきたい。

 

 

この〈神から逃避する人間〉、このことについて、わたくしは次の書から深い示唆を与えられた。それは、ボンヘッファーの『創造と堕落 創世記一~三章の神学的解釈』である。ここで紹介することにしたい。

 

アダムよ、あなたはどこにいるのか。創造者のこの言葉によって、逃走中

のアダムは自己の良心から呼び出される。彼は創造者の前に立たなければならない。人間は、自己の罪の中にひとりとどまることを許さない。神が彼に語りかけ、逃走中の彼を停止させる。あなたの隠れ家から出てきなさい。あなたの自己叱責から、あなたのおおいから、あなたの秘密から、あなたの自虐から、あなたの空虚な懺悔から出てきなさい。自ら告白しなさい。敬虔な失望によって自己を喪失してはいけない。あなた自身でありなさい。

 

アダムよ、あなたはどこにいるのか。あなたの造り主の前に立ちなさい。この呼びかけは、まっこうから良心と対立する。良心は言う、アダムよ、あなたは裸である、創造者の前から隠れなさい、あなたは創造者の前に立つことはできないのだ、と。しかし、神は言われる、アダムよ、わたしの前に立ちなさい、と。神は良心を殺す。

 

ボンヘッファーはここで〈良心を殺す〉と述べている。このことについて考えておきたい。彼の言う〈良心〉とは人が自分の弱さを悲しむ、それをする自分の居場所のことである。彼は言う、人は自分の弱さを理由に神の委託から逃避するとき良心の中に逃避する。人はこのとき神の委託から逃避する立派な理由を持つことができ、また神の委託に直面することを避ける隠れ場を持つことになる。彼は言う、「神は良心を殺す」。

 

わたくしは自分の中に深く刻印しておきたいので、彼の言葉を今掲げたばかりであるのだが、ここでいまいちど掲げる。

 

あなたの隠れ場から出てきなさい。あなたの自己叱責から、あなたのおおいから、あなたの秘密から、あなたの自虐から、あなたの空虚な懺悔から出てきなさい。自ら告白しなさい。敬虔な失望によって自己を喪失してはいけない。アダムよ、あなたはどこにいるのか。あなたの造り主の前に立ちなさい。

 

ボンヘッファーはまたこうも語っている。

 

  世界が、われわれといっしょに堕落した結果、われわれにはおおわれたもの、隠されたもの、見透しのきかないものと思われるように、神にとっても世界が不透明であるかのように考えるなどとは、なんという驚くべきアダムの錯覚ではないか。

 

ボンヘッファーがこれを語ったのは一九三二年から三三年にかけてのベルリン大学での講義であるという。この時のドイツはナチズム・ヒトラーが台頭し政権を掌握しようとしていた状況にあった。この状況の中において人々はナチズム・ヒトラーのしようとしていることが分からない、見透しがきかない、人々は真相をつきとめられないでいた。

 

ボンヘッファーはこの状況をふまえてこう言った、「神にとっても世界が不透明であるかのように考えるなどとは、なんという驚くべきアダムの錯覚」、と。このとき彼は創世記の神学的解釈を通してイエス・キリストの教会に関わる全てのひとびとに向かって眼を覚ませと覚醒をうながしたのであった。

 

彼はこの講義において「神は良心を殺す」と語ったが、この言葉もナチズム・ヒトラーの登場をまじかにした状況の中で、イエス・キリストの教会に関わる者たちが〈良心に閉じこもる〉ことで歴史と社会の状況と関わることなく、そこから逃避し身を隠してしまう、そういうことにならないよう強くうながす言葉であった。

 

さて、原初史物語の作者は、主なる神からの呼びかけに対し人間がどう応答したか、それを物語ってゆく。

 

3章10

「彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』」

 

原初史物語作者は物語る。主なる神からの呼びかけに対し人間アダムは神から身を隠している理由を語った。その人間アダムの述べた理由は「わたしは裸ですから」であった。ここで人間アダムの言う「わたしは裸ですから」の意味するところは〈土で造られている〉ということ。人間アダムはこれを神から身を隠している理由として挙げた。

 

そうすると、人間アダムが神から逃避し隠れている理由に〈土で造られている〉ことを挙げたということは、土の性質である〈もろくよわい〉、それは見せられないことであるという認識にある、それを示していると言ってよいだろう。

 

そうすると、人間アダムが土の性質である〈もろくよわい〉ことを恥ずべきとするに至っているということは、人間アダムにこの土の性質である〈もろくよわい〉の持つ〈良い面〉、すなわち、〈もろくよわい〉がゆえに〈相互に依存し合う関係〉を生み出すことができるという良い面、これが認識されなくなっているということを示している、と言ってよいのではないか。

 

さらに言えば、〈土で造られている〉こと、〈もろくよわい〉ということ、これを恥ずべきことであるとするということは、世の権力を掌握した者がその強さによって支配し、抑圧し、排除し、抹殺することさえする、その強者の価値観のほうに持っていかれてしまっているということを示している、と言ってよいのではないか。

 

 

原初史物語作者はここで、根底から変質してしまったのではないかとおもわざるを得ない人間アダムに対し神から問かけがあったと物語る。そして、その神からの問かけに人間アダムがどう応答したかについて物語る。ここも丁寧に読んでおこう。

 

3章11

「神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』」

 

ここにしるされている神の人間アダムへの語りは問かけとなっている。ここは神が人間アダムに説明の機会を与えている、と解してよいのではないか。

 

人間アダムは〈自分の裸を恥じる〉〈土で造られていることを恥じる〉〈もろくよわいことを恥じる〉に至っている。これを結果したには原因がある。その原因は〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたということである。この〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べるということは、世の権力を掌握した者に最高の賛辞を呈してこの者に依存するということを意味している。

 

これは人間アダムが自分だけで判断し実行したことであったゆえに、この自主的な行動について人間アダムには説明する責任があった。ここの神の問かけは人間アダムにその説明責任をはたす機会を与えたもの、と解してよいのではないか。

 

原初史物語の作者は、人間アダムがその与えられた責任説明の機会に述べた言葉をしるす。

 

3章12

「アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』」

 

ここで人間アダムは、〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べた、それは勧められたことであったが、しかし、〈食べた〉ということは自分の判断であり、自主的な行動であったのであるから、〈食べた〉のはなにゆえであったかその理由を説明し、そのうえで自分の責任について述べる、そうであるべきであった。が、そうしない。ここで人間アダムが述べた言葉は「あなたが共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」であった。ここで人間アダムが言っていることは、こうなったことの責任は自分にはない、その責任は〈女〉のほうにあるということ。つまり、人間アダムがここでしていることは責任を〈女〉に〈なすりつける〉ことであった。

 

人間アダムはここで「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった」者のせいでこうなったと言い、原因は主なる神のあなたにある、よって責任は主なる神のあなたのほうにあると言った。人間アダムは言う、責任は自分にはない、と。

 

原初史物語の作者はこのように物語っている。ここでわたくしの推測を言うのだが、原初史物語作者がこの語りで言おうとしていることの要点は人間アダムは〈自分の責任を告白しない〉ということ、これではないか、と、わたくしは推測する。

原初史物語作者がここで語っていることは、人間アダムは〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べることにおいて自主的であったが、その自主的行動の結果についての責任を自主的に言い表すことはしないということ、つまり、人間アダムは〈罪責の告白〉を自分からすることをしないということ、これを語っているのではないか、と、わたくしは推測する。

 

原初史物語の作者はこの後、責任を他になすりつけるのは〈女〉も同様であったと物語る。これも物語作者の意図から出ている語りであると、わたくしは推測する。すなわち、〈罪責の告白〉は例外なく全ての人間の課題であるということ、しかし、その〈罪責の告白〉の課題は誰も担い得なかったということ、原初史物語の作者はこう語っているのではないか、と、わたくしは推測する。原初史物語作者はここで〈テーマ〉を立てているのではないか、それは〈罪責の告白〉というテーマではないか。わたくしはそう推測する。

 

原初史物語作者がこの後しるしていることは、人間が〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べた結果、地上に〈さまざまなこと〉が生じたということの語りである。わたくしはその語りの中の一点については、そうだと考えている。それを挙げると、

 

3章17 

「お前は取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる、野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。」

 

ここにしるされていることは〈食べ物を得るうえでの苦しみ〉ということであるが、原初史物語の作者はこの苦しみは〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたことによるとしている。

 

ここでわたくしの推測を言うと、この〈食べ物を得るうえでの苦しみ〉は隠喩であって、それは〈独立自営農民〉の苦しみを言っている。この〈独立自営農民〉の苦しみは〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたことによって生じた。

 

〈善と悪を知る知識の木〉この隠喩によって言われていることは、ダビデからソロモンに至る国家体制、ことにソロモンの国家体制のことであるが、この国家体制の中で〈独立自営農民〉は生計を立ててゆくことが難しくなる。国家の強いる税の重さ、国家が強制する兵役の義務、強制的になされた労働の義務(王宮や神殿の建造など)、こういったことに駆り出された〈独立自営農民〉は〈独立自営〉が極めて困難になり、債務を負うようになり、耕作地を売却することによって債務を支払う、また大土地所有者の農園の債務農奴になる、その大農園の防衛の兵士として雇われるといったこととなり、〈独立自営農民〉として生きてゆくことができなくなってゆく。

 

原初史物語の作者は〈食べ物を得るうえでの苦しみ〉、これは〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べたことによって生じたとする、これは〈独立自営農民〉が強いられている状況についての適切な分析であり指摘であると言ってよいのではないかとおもう。

 

 

原初史物語は創世記1章から11章までのところにしるされている物語であるが、この原初史物語は〈独立自営農民〉の立場からしるされ、原初史物語の全体のテーマは〈食べ物を得ること〉としていると言ってよいのではないかとおもう。

 

原初史物語の作者はこの後の創世記四章からのところでこうしるす。「土は作物を産み出すことをしない。」〈土が食べ物を産み出さない〉ことは人間の命を養い支えるものがなくなるということ、これは人間のみならず生きとし生けるもの全体の命の存続を危うくさせるということ。原初史物語の作者は命の存続を危うくさせるこの問題〈土が食べ物を産み出さない〉をテーマに立てて取り組んでいる。

 

原初史物語はこの後の創世記六章において生きとし生けるものの命の絶滅をきたらせかねない〈洪水〉について物語るが、ここも〈土が食べ物を産み出さない〉ことになる問題をテーマに立てて取り組んでいると言い得る。原初史物語の作者は〈洪水〉の終了の時、この終了の時は〈土が食べ物を産み出さない〉この命の存続の危機を神が終わらせる時であるが、この時に創造主なる神がなさった最初のことは〈季節の存続〉についての約束であったと語る。この〈季節の存続〉ということは〈土が食べ物を産み出す〉ための基本条件に関わる。原初史物語の作者が物語のテーマに立てているのは〈土が食べ物を産み出す〉ことであると言い得る。

 

原初史物語の作者は〈洪水〉の終了と〈新しい地〉の始まりを告げる徴として〈オリーブの木の葉をつけた枝〉を挙げている。この〈オリーブの木の葉をつけた枝〉は〈土が食べ物を産み出した〉ことを告げるものである。地上は〈洪水〉によって箱船の外には何も生存していないのであるから、ノアに鳩がもたらした〈オリーブの木の葉をつけた枝〉この〈農の産み出す物〉はいったい誰が作ったというのか。神のほかには考えられない。とすれば、神は〈農の産み出す物〉を作る方であるということ、原初史物語の作者はそう語っているようである。

 

原初史物語の作者は〈洪水〉を終了させた神が開口一番に語った言葉を創世記九章一にしるしている、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」が可能になるためには〈土が食べ物を産み出す〉ことが起こらなければならない。原初史物語の作者は〈洪水〉を終了させた神が開口一番に語った言葉が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」であったと語ったとき、〈土が食べ物を産み出す〉を物語のテーマにしていたと言ってよい。

 

創世記1章から11章までの原初史物語はこのようなわけで、物語の主題を〈食べ物を得ること〉としていると言ってよいであろう、と、わたくしにはおもわれる。

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