2019年度までの主任担任教師・下田洋一牧師からの、毎月のおたよりのバックナンバーです。


ももぞのだより

2016年01月03日 10:30

2015年

  新しい年の初め、昨年の2015年を振り 返っておきたい。ここで購読の新聞に載った文章を紹介する。それは菅原文子さんとおっしゃる方の文章である。 菅原さんは昨年11月フランスのパリで起こったテロ事件の後の「大国」の軍事報復に憂慮し新聞に寄稿した。 「フランスの悲しみや怒りを世界に届けるメデイアは数多くある。彼らの声は大きく、よく響く。悲しみの場所に花束が集まり、ローソクの灯が連なる。その明るさは遠い日本にまで届く。」 「しかし、多くの市民たちを殺害し自らの若い生命もその場に捨てたイスラームの人たちの声を届けるメデイアの声は、あまりにも小さい。だから私たちには、世界の半分しか見えてい

—————

2015年12月06日 10:30

沖 縄

  今この国日本における最大の問題は沖縄の辺野古に米軍基地を日本政府が建設する問題だ。 日本政府は建設を強引に進め、その手法は常軌を逸している。沖縄県の翁長雄志知事は民意に基づき、これを造らせないとして闘っている。新聞報道から想像するに翁長知事は「熱く」しかし「冷静に」闘っておられるようだ。 購読の新聞の報道によると翁長知事は今年9月スイス・ジュネーブでの国連人権理事会で演説しその中で「沖縄の自己決定権」について述べた。この翁長知事の演説は国際法の基本原則を確認したものと言いうる。国連の定める国際人権規約の第一条にこうある、 「全ての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、全て

—————

2015年11月01日 10:30

責 任

  国会で承認された新安保法が実施されたとき生じうることの一つは次のことである。この国の自衛隊がPKO(国連平和維持活動)に派遣され現地で活動するとき、これまでは正当防衛に限って武器使用を認められていたが、それが大幅に使用可能になる。 現地で内戦が生じ人々が助けを求めて日本の自衛隊の居る所に逃げ込んで来、それを追って民兵集団が攻撃してきたとき、これからの自衛隊はその民兵集団を撃退させるための武器使用を相当程度自由にしてよいということになる。 この場合に次の問題点が生じる。自衛隊がこの事態に直面するのは突如のことであって本国政府に意向をたしかめるいとまはないゆえこれを実施した責任は現地

—————

2015年10月04日 10:30

希 望

反安保法案デモ集会に若い人たちの参加が目立った。若い人たちの率直な物言いに新鮮さを感じた。購読の新聞に載っている写真には若い人たちの顔が溢れていた。私はこれまでとは違うものがこの国社会に動き始めているのではないかと思った。 私はこの若い人たちの物言いを私なりに言い直せば「わたしは殺されたくないし、人を殺したくない」。私はこの若い人たちの言っていることに深く感じ入るものがある。 このたび可決された法が適用されたら、殺されるのも人を殺すのもまずは自衛隊の隊員たちである。若い人たちが「わたしは殺されたくないし、人を殺したくない」と言うとき、もちろん自分自身のことを思って言っているにちがいないのだが、

—————

2015年09月06日 10:30

「戦後70年談話」

  「戦後70年談話」が発表された。そこに次の文章がある、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」 私はここに「談話」を出した動機があると思った。「談話」は「事を済ませるために」出されたのではないか。 私は苦い経験を思い起こした。それはこういう経験である。 事件が起こった。その事件で被害者と加害者が生じる。被害者は傷をつけた加害者にその旨を言う。加害者は言う「そのつもりはなかった」。被害者はその答えで納得しない。そこで加害者はこう考えるようになる、ここは加害を認めよう、謝罪をせよという要求に応じよう

—————

2015年08月02日 10:30

夏の悪夢

  私は集団的自衛についての安倍首相の説明が理解できない。 彼はこう言う、日本の存立が危うくなると判断されるときには未だ日本が武力攻撃をうけていなくても日本から先に武力攻撃することができる。 この説明に対し日本の存立が危うくなると判断するとき何が根拠になるのかの問いに、彼はこう言う、いろいろなことを総合的に判断する。 総合的にとはどういうことかの問いには、こう言う、総合的の内容を言うことはできない、日本に武力攻撃してくる相手にこちらの手の内を明かすようなものであり、また国家機密であるから。 要するに安倍首相の集団的自衛についての説明は全て政府に任せよということ。これは戦争が必定となる

—————

2015年07月05日 10:30

救いについて その2

  新約聖書のヨハネ福音書は神による救いについてどのように言っているだろうか。この福音書によく知られた文章がしるされているが、それは「神は独り子を与えるほどにこの世を愛された」である。  このよく知られた文章を解くと、「独り子」は「イエス」、「与える」は「引き渡す」という意味、引き渡す先は「この世」、「この世」とは人々のことを言っているのだが、それを「世」という表現で言っている、「世」はこの福音書では或る性質をもったものとして登場、それは自分の非を指摘されると強く拒否する、光に照らされないように逃げる、「闇」という性質をもつ、「愛された」は真正面から向き合う在り様のことである。  こ

—————

2015年06月07日 10:30

救いについて

キリスト教は救いについて宣教するがその救いとはどういう内容であるかと問われると答えを一言で言うのは難しい。理由は聖書に記されている救いについての内容がいろいろであるから。新約聖書に限ったとしても救いについての主張は多様となっている。 新約聖書には四つ福音書があるが救いの内容はそれぞれである。救いがナザレのイエスにおいてもたらされたということでは一致しているがその救いの内容となると多様である。 福音書の中で最初に書かれたマルコ福音書の言う救いは「癒し」と「会食」の中にあると言ってよい。今日このマルコ福音書の言う方向で歩もうとしている人は自分の場でこれをなにほどかでも行おうとするのである ではマタ

—————

2015年05月03日 10:30

対話不在

  「言は肉となった」―これは新約聖書ヨハネ福音書によるイエスが誰であるかについての説明、これによるとイエスは言が人間となった存在である。古代教会はイエスが誰であるかの説明として「真の人」という表現を用いたが、これによるとイエスが「真の人」であるということは「言が人間となった」存在である。 ここには人間とは何であるかについての示唆がある。これによると、人間とは言である、ということ。ここで「言」とは何であるかの問いに意思の伝達の通路であると答えておきたい。この通路で意味されていることは互いの意思の伝達の交流である。人間とは言である、とすれば、人間とは互いの意思の伝達の交流に生きる存在で

—————

2015年04月05日 10:30

イエスは誰か

教会の暦は「復活節」と呼ばれる時節を迎えた。きょうはこの時節を迎えることの意義を考えたい。 復活節を迎えた最初の人々はどういう時としていたか。それは、十字架にて抹消されたイエスはいかなる方であったのか、これを解釈する時であった。 福音書にこういう物語伝承がある。それはイエスをキリストと証言した最初の人であるバプテスマのヨハネが獄中からイエスに問いを送った物語伝承。彼の問いは「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」というものであった。 この問いに対するイエスの答えは「目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩けるようになり、重い皮膚病にある人が

—————