2019年度までの主任担任教師・下田洋一牧師からの、毎月のおたよりのバックナンバーです。


ももぞのだより

2017年08月06日 10:00

「平和への誓い」

8月6日72年目の「原爆の日」を迎えた。広島の平和記念公園で「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われた。その式において広島の小学6年生の二人、竹舛直柔さんと福永希実さんによって、「平和への誓い」が朗読された。それをここで紹介する。「原子爆弾が投下される前の広島には、美しい自然がありました。」そこには「一緒に創るはずだった未来がありました。」(しかし)「1945年8月6日午前8時15分、広島の街は焼け野原となりました。広島の街を失ったのです。多くの命、多くの夢を失ったのです。当時小学生だった語り部の方は『亡くなった母と姉を見ても涙が出なかった』と語ります。感情までも奪われた人がいたのです。 しか

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2017年07月02日 10:00

わたしのシェルター

この国の今の政府は秘密保護、安保、共謀罪の法案を次から次へと出し、多数与党はこれを可決。これらは国民の間で賛否がおおきく分かれているもの。当然のことながら国民の間に対立が深まった。が、この対立は今の政府に都合がよいようだ。今の政府は対立を生じさせ、それによって生じた一定の固定した勢力を政権維持の基盤にする、という手法を取る。この手法はこのあたりでやめさせなければならない。というのは、この手法はやがて「テロ」を生むことになるからである。わたくしはこのたび大江健三郎の『定義集』(文庫版)を繰り返し読んだ。解説を作家の落合恵子が書いている。その題は〈「意志的な楽観主義」をタイトルに借りて〉。「意志的

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2017年06月04日 10:00

人権の感覚

岩波新書に日高六郎『戦後思想を考える』がある。この書の冒頭に三木清の獄死のことが書かれている。著者いわく、「日本は、戦後、おそらくもっとも重要な思想的な仕事をしたであろうひとりの思想家を失った。」三木は治安維持法によって獄中の人となり獄死した。三木が獄死したのは1945年8月15日(敗戦)以前ではなく、それから一カ月以上たった9月26日であった。日本政府は敗戦後も三木を釈放せず獄死させた。三木清の獄死を聞いたロイター通信の記者がおどろいて日本政府の山崎内相に面会を求める。このとき内相はこう答えた〈思想取り締まりの秘密警察は現在なお活動を続けており、治安維持法によって違反者は逮捕する。〉日本政府

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2017年05月14日 10:00

危ない! 

 政府は「テロ準備罪」を取り締まる法を制定しようとしている。関心をもって購読の新聞を読んでいるのだが、全く解せない。 かつてこの国には「治安維持法」なるものがあった。これも「テロ準備罪」を取り締まる法であった。この法が制定されたその時点ではこの法が適用されることなく問題が感ぜられなかったのだが、数年後時局が変わる中でこの法が適用され、無実の者が拷問の末死に至らしめられた。中野の隣の杉並の住民であった文学者小林多喜二はまさにそれであった。 政府が制定しようとしている「テロ準備罪」を取り締まる法は制定された時点でただちに適用されることはなく問題が感ぜられないであろうが、時局が変わる中であの小林多喜

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2017年04月02日 10:00

正義を疑え

 このたび贈呈いただいた『生きたかった 相模原障害者殺傷事件が問いかけるもの』(大月書店刊)を読ませていただきました。この問題について無知も同然のわたくしに深い示唆と教示が与えられました。わたくしは聖書を読んでいる教会にはこの問題について言葉を発してゆく責任があるとおもっておりますので今号もそうしてみることにいたします。 聖書の教えによって言うと、人の命は別なもので取り替えることができません。人は固有の存在であるからです。これに対し事故で壊れた自動車の場合これは取り換えができます。それが「物」であるからです。人の命は人が固有の存在であるゆえその命は別なもので取り替えることはできません

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2017年03月05日 10:00

1517年

わたしたちの教会はプロテスタント教会に属しています。プロテスタントとは抗議をする者といった意味ですが、これはルターがローマ・カトリック教会の一員として問題の提起をしたことからきています。 ルターが言ったことを端的に言うとこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによってのみである。これに対しローマ・カトリック教会が主張したことはこうなるかとおもいます。人の義とされるのは神の恵みによることはもちろんだが、神は恵みによって義とされた者が愛の行為をする者になることを期待している、そうなることによって神の恵みは完成する、ルターのように《のみ》と言ってしまうと、人間の応答としての愛の行為はどうで

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2017年02月05日 10:00

発想の転換

   「コペルニクス的転換」という言葉がある。発想を逆転させるという意味である。地球は動かない、動くのは太陽であるとする考え方からその逆の動くのは地球であって太陽は動かない。こういう発想の逆転を言うときこの言い方が用いられる。   「少数者」の人権を主張し守る運動の歴史の中でこの「コペルニクス的転換」が起って行った。それが起こる前は「少数者」が「多数者」に合わせるため自分を変えるべきとされていたが、それが起こってからは自分を変えるのは「多数者」であるという「発想の逆転」が起こった。   ところが、政治的には、「少数者」を「施設」に収容する、それがおこなわれていった

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2017年01月28日 09:46

土の人

 「土人」は人を差別する最悪の言葉であるが、これに「の」を入れ「土の人」とすると聖書の言っている人間のことになる。創世記2章の物語によると人間は「土」で造られている。 「土」の意味は〈もろい〉〈よわい〉。人間が土で造られているということは〈もろい〉〈よわい〉を当たり前のこととする。だが、このことを受け入れることは簡単なことではない。 キリスト教の礎石の位置にある人パウロは重い病いをかかえていた。彼の告白によると、癒されることを繰り返し祈り願った。このことは彼においても〈もろい〉〈よわい〉を当たり前のこととすることが難しかったことを物語っている。 パウロの確信するキリスト教は「人間が義と認められ

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2016年12月04日 10:00

言葉を出して

  相模原市の施設の「ハンデ」のある方々が殺傷された事件の報に接したとき、わたくしは強い衝撃を受けた。   発言すべき責任があると思いつつ、今日まで言葉が出ないままきた。ようやく言葉を発する思いに漕ぎつけた。ここで書くことはわたくしが今知り得ている範囲でとなる。   殺傷をおこなった人は自分の正義の基準によっておこなった。この人の正義によれば「ハンデ」のある者は抹消されるべきだ。このときこの人は自分を最終決定権のある人間だとしていた。   わたくしは聖書を読んでいる者として、このような最終決定権を持っているとしている者のことを聖書は何と言っているか述べる責任がある

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2016年11月06日 10:30

人間として

 このたび沖縄における米軍基地建設を阻止しようとしている沖縄の人々に対し大阪府警の警官が「土人」の言葉を投げつけた。「土人」は侮辱する言葉として最大級のものである。このたびのことは問題を根本から考えておく必要がある。そこで次の事例を参照にする。  1961年、ナチスの戦争犯罪者アドルフ・アイヒマンの裁判が開始された。アイヒマンはナチス・ヒットラーのユダヤ人大量虐殺を実行する指揮官であった。 アイヒマンは裁判でこう言ったという。自分は組織の一員として組織の決定に対し忠実であっただけで、有罪にするのであれば組織を有罪とすべきだ。このアイヒマンの主張に彼がユダヤ人を平気で大量虐殺し得た因が存している

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